絹人往来

絹人往来

日本絹の里「友の会」会長 蚕糸に携われる喜び 藤井 亨さん(77) 高崎市江木町 掲載日:2008/04/10


日本絹の里で「友の会」の10年を振り返る藤井さん
日本絹の里で「友の会」の10年を振り返る藤井さん

 織物や染色、繭クラフトなどプロ顔負けの作品が会場を彩る。4回目となる日本絹の里工芸展。出展している「友の会」会員の技術は年々向上している。
 「皆さんの上達ぶりには驚かされる。趣味が高じて工芸作家になった人もいる。手織りや染めの講習会は盛況で、いくつかの自主サークルも生まれた。熱心な会員のおかげで、絹の里が行う事業も盛り上がり、館の発展にも貢献している」
 日本絹の里がオープンして4月で10周年。同時に発足した友の会(355人)も裏方として館を支えてきた。会長として10年間、先頭に立って新規事業の企画や会の運営に力を尽くした。
 「関連施設の視察見学で見聞を広め、講習会で腕を磨く。向上心のある人は、さらに手織りや染めのサークルをつくって自主活動を行い、会員個々がシルクの探究に努めている。地道な活動が、群馬の絹の魅力を全国、世界に発信することに一役買っている」
 東京農工大養蚕学科を卒業後、1951年に県職員に採用された。西部、中部の蚕業事務所長や蚕糸課長などを歴任、38年間、養蚕一筋だった。
 「私が入ったころは、群馬県の農業は養蚕が花形。蚕種業者、養蚕農家も誇りを持っていて、行政もやりがいがあった」
 だが、68年をピークに、中国からの安価な生糸の輸入で収繭量は徐々に減少。89年、県を退職した後は、蚕糸振興事業協会の専務理事や国の蚕糸業振興審議会委員を務め、中国を数回訪問して生産量や価格調整の交渉を行うなど、最後まで養蚕振興に努めた。
 「私の仕事人生は養蚕一色だった。仕事から離れて6年、空虚な日々を過ごしていた時、日本絹の里が開館して、友の会の会長に推薦された。再び、蚕糸業に携わることができる喜びと同時に、責任の重さを感じた」
 初代会長として蚕糸業で培った知識と経験、温和な人柄で会員をまとめ、会の事業を軌道に乗せた。「10年間を振り返ってみると、会の運営や会員の増減で頭を痛めたこともあったが、皆さんに支えられながら何とかこなすことができた。満点とはいかなくても90点は取れたのかな」

(高崎支社 萩原武史)