絹人往来

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帯 情報仕入れ流行築く   掲載日:2006/05/22


帯を見ながら当時を懐かしむ嘉和知さん
帯を見ながら当時を懐かしむ
嘉和知さん

 織機が「ガチャン、ガチャン」と鳴るたびに、万の金が入る。「ガチャ万」。かつて、桐生市内のあちこちで聞こえ、機所の繁栄ぶりを伝えた流行語。そんな時代を経験した。1948年、帯を生産する家業の機屋を本格的に継ぐ。
 「当時は珍しかった自転車を買ってもらい、小4の時から、賃機(外注の機屋)七軒から帯を集めて回る手伝いをした。18歳ぐらいになると、織物を荷車に積んで、検査場に持って行ったことも覚えている。税金を払って、はんこをもらうためにね。私の名前には『織』の字がついているでしょ。継ぐことは必然だった」
 自社ののこぎり屋根工場には最盛期、織機が20台あり、女性従業員が20人ほど働いていた。新潟や長野から雇うほど忙しかった。
 「毎日、夕方になると、買継商が何人も待っていて、『1本でも2本でもいいから売ってほしい』と言われてね。とにかく何でも売れた。ある時は、祭り用にそろいの帯を数百っていう注文があって、従業員が帰った後も妻が夜通し織った」
 時代は織物業に味方していたが、甘えることはなかった。「いいもの」を作るための努力は惜しまなかった。桐生内地織物協同組合の役員を務め、東京などでの展示会で宣伝活動した。
 「京都や博多との三産地会合に出張したり、買継商や問屋と一杯やって、客が何を求めているのか、情報を仕入れた。おかげで、うちの帯は常に流行の最先端だった。季節ごとに開かれる展示会でいつも入賞した。その代わり朝、家を出ると夜中まで帰らないっていう毎日だったよ」
 桐生の織物は52年をピークに衰退を始める。「嘉和知織物」も時代の流れに逆らえなかった。娘2人は嫁ぎ、後継者はいない。94年、高齢を理由に事業を解散する。
 「東京につながる道がうちの前を走っていた街道から国道50号に移り、物を運ぶのに具合が悪くなった。着物を着る人も減った。さみしいね。跡を継いで頑張っている人には伝統を守り続けてほしいって思っている」

(桐生支局 浜名大輔)