養蚕指導 父親世代相手に奔走 花茂 喜右さん(71) 沼田市榛名町 掲載日:2007/09/04
常陸宮殿下との写真を手にする
花茂さん
「これからは養蚕の時代と言われた。国の復興のために働きたい気持ちがあった」
片品村で代々続く養蚕農家に生まれ、“ざくざく”と蚕が桑を食べる音を聞いて育った。1951年、主要な輸出産業として復活した養蚕の指導者を目指して、県産業講習所へ入所した。蚕室に寝泊まりして蚕の面倒を見る厳しい寄宿生活。1年間で飼育法を学んだ。
「食糧難の時代だったから、さなぎをいって食べたこともあった。栄養価が高いものだから、食べ過ぎて鼻血を出してひっくり返る仲間もいたくらいだった。今になってはいい思い出」
卒業後、県養蚕連合会に就職し、旧月夜野町の養蚕農家400戸の指導に当たった。上司と繁忙期に手伝う季節職員3人と手分けして、巡回指導に走り回った。
「学校卒業したての16、7の子供が、父親やおじいさんほど歳が離れた人たちに教えるのだから大変だった」
60年代後半、蚕を2、3齢まで育てる共同飼育場が利根沼田地区に建設された。指導に回ることは減ったが、病気にかかると全滅することもあり責任が大きくなった。
「幼い蚕は病気になりやすい。雨にぬれた桑は乾かしてやらなければならないほど、手が掛かった」
退職前に初任地の旧月夜野町へと戻った。当時、指導した農家の多くは息子や孫の世代になっていた。「昔のことを知っている人が少なくなっていた。40年余りの時の長さを感じた」
退職した96年、大日本養蚕会から養蚕指導功労賞を受賞した。式典では受賞者総代として、常陸宮殿下と歓談した。
「何をお話したのか分からないほど緊張したが、最後の締めくくりに最高の舞台だった」
写真が趣味。利根沼田地区で蚕が繭を作らない病気がはやった際、農家の惨状を伝えようと撮った写真が業界紙の読者写真コンテストで最高賞に輝いた。今でも養蚕を題材にした写真を撮って、コンテストに応募している。
「受賞はうれしかったが、農家のことを思うと複雑な気持ちだった。今まで撮りためてきた写真をまとめて、戦後の養蚕の記録を残したい」