絹人往来

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元養蚕指導教員 桑増産へ奨励種を研究 富田 泰好さん(72)  太田市二ツ小屋町 掲載日:2008/10/30


「大泉高校八十年史」を見ながら養蚕を指導した当時を振り返る富田さん
「大泉高校八十年史」を見ながら養蚕を指導した当時を振り返る富田さん

  1955年に小泉農業高校(現大泉高校)を卒業すると、間もなく同校の助手となり、養蚕や農産加工の指導をした。「教わる立場から教える立場になり、身が引き締まった」と振り返る。
 近所の農家は「農業高校なら何でも分かるだろう」と、同校を頼りにして養蚕や米作のことなどを学校に聞いてきた。「当時は食料増産のために米や麦の研究は盛んだったけれど、桑の研究が遅れていた」。農家の要望に応えようと、57年から恩師と一緒に桑の研究を始めた。
 国内で栽培されていた主な桑の品種10数種類をそろえ、学校の畑で栽培。植えてから3年の桑の葉の量などを比較し、どの桑が東毛地域の土壌に向いているのかをリポートにまとめた。
 「葉の収量は良い物と悪い物では倍の開きがあった。季節ごとにばらつきもあったので、そのなかで三種類を奨励種にしていた」。より多くの蚕が飼えるよう、葉の多い桑を植えるよう勧めた。
 当時、同校に通う生徒の大半は農家の子供だった。「養蚕農家の多い新田郡や山田郡の子供は家で養蚕をしていたので、慣れた様子で蚕を扱っていた。逆に、板倉など穀倉地帯の子供は蚕に触るのを嫌がったが、だんだんと慣れていった」と実習風景を語る。
 養蚕実習には泊まり込みでの温度管理や桑やりがあり、春と秋の年二回、合宿をした。
 「生徒とは年が近いこともあり、泊まりの日には青春論や人生観について議論を交わすこともあった。夜通し語り合うこともよくあった」
 助手から教員になるため、働きながら大学に通って教員免許を取得。67年に中之条高校に教員として赴任した。その後、新田高校(現新田暁高校)を経て、83年から再び母校の大泉高校で教壇に立った。
 その当時、同校で養蚕実習は行われていたが、指導は別の教員が担当。90年ごろに養蚕農家の減少を受けて実習は終了した。富田さんは農産加工を教え、97年まで同校で教壇に立った。
 「戦後のもの不足の時代に、衣料品になる絹は貴重だった。戦後復興や高度成長の礎になれたことを誇りに思っている」と笑顔で語った。

(大泉支局 宮村恵介)