絹人往来

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納屋 蚕具に苦楽の思い出 大関 佳一さん(78) 太田市台之郷町 掲載日:2008/04/19


納屋に残る蚕具の使い方を説明する大関さん
納屋に残る蚕具の使い方を
説明する大関さん

 自宅前には、両親が養蚕に使うため1926(昭和元)年に建てたという土壁の古い納屋がある。「辺り一面が桑畑」というほど養蚕が盛んだった地域の中でも、比較的大きな作業場だった。
 「境町(当時)の島村蚕種から毎回120から130グラムの蚕種を買い、年に4回出荷していた。蚕と一緒に育てられたようなもので、ひょっとしたら蚕の方が大切にされていたかもしれない。まさに『お蚕様』だった」
 第二次世界大戦中、近隣には軍の部隊が数多く駐屯した。
 「ある日軍人がやってきて、『明日から米の備蓄に使わせてもらう』と突然言われた。どこから運んでくるのか分からないが、兵士が米袋を運んできては屋根裏に届くほど高く積み上げていった。子供心に大変だなあと思った」
 すでに養蚕の手伝いをしていたが、戦況が悪化すると「養蚕どころではない」と思い、陸軍に志願。「長男だったので両親がなかなか許してくれなかったが、何とか説得した。ところが試験に合格し、あと一週間で配属、というところで終戦を迎えた」
 納屋には回転蔟(まぶし)をつるす棒など蚕具が多く残り、往時をしのばせる。
 「近所ではわが家しかなかった」という巨大なはさみは、桑園からとってきた1・5メートルほどの枝を、まとめて細かく切るのに使った。
 蔟を折る機械も一部残る。「冬の間、姉や妹が機械を使ってわらの蔟を編んでいた。1日に三つ作るのが精いっぱいだったが、小遣い稼ぎになったようだ」
 15年前、妻が亡くなったのを機に養蚕をやめた。
 「とても1人でできる仕事ではない。『競争虫』と呼ばれたくらいで、よその家が夜10時まで餌をくれていると聞けば、うちは11時までといった具合だった。道具を見ると楽しいこともつらいことも、昨日のことのように思い出す」
 現役の農家として今でも米作りを続けている。
 「4年前に胃と腸を手術した。養蚕をやめて正直ほっとしたが、手術を無事に乗り切ったのは養蚕で養った体力があったからかもしれない」

(太田支社 正田哲雄)