養蚕 雨や台風でも桑とり 剣持 冨美さん(90) 中之条町平 掲載日:2008/08/19
「体が動くうちは農業を続けたい」と話す剣持さん
高崎市鼻高町(旧八幡村)の養蚕農家に生まれ、幼少期から養蚕業に親しんで育った。
「生まれた時から蚕がいる生活だった。子供のころから、桑摘みなど親の養蚕の仕事を手伝っていた。当時の学校には、養蚕が忙しい6月ごろに『農繁休み』が一週間ほどあった。子供が家の作業を手伝うためで、それだけ養蚕が盛んな時代だった」
安中の女学校を卒業後、1938年に21歳で夫の太郎さん(97)と結婚した。嫁ぎ先も養蚕農家だった。
「養蚕だけでなく、麦なども作っていたため、養蚕と麦の収穫期が重なる6月は、毎年とても忙しかった。蚕には毎日餌をあげなければいけないので、雨や台風でも桑をとりに行った。昼夜関係なく、一生懸命仕事をした。養蚕には多くの人手が必要で、忙しい時期は何人も手伝いを頼んで作業をこなしていた」
65年ごろ、地域でたばこの栽培が盛んになり始めた。
「蚕に比べて人手もかからず栽培が簡単なのか、周囲の農家はほとんどたばこに乗り換えていった。家族で誰もたばこを吸わず、みんなにおいが苦手なので、自分たちはたばこはやらなかった。ずっと蚕がいるところで育ってきたので、蚕を飼うのは自然なことだった」
10年ほどでたばこの栽培は下火になったが、その後、養蚕に戻る農家は多くなかった。
社会情勢の変化により、人に手伝いを頼むのがだんだんと難しくなり、人手が足らなくなったため、83年ごろに養蚕をやめた。用具は人に譲ったり学校などに寄付したりして、ほとんど残っていないという。
90歳になった今でも、現役の農家としてスナックエンドウやトウモロコシなどを栽培、元気に農作業に励む毎日だ。
「いつまで続けられるか分からないが、体が動くうちはやっていたい」
養蚕をやめてから25年になる。
「蚕は生きもの。養蚕をしていた時、命あるものを飼うことにとても大きな責任を感じていた。大変だけどやりがいがある仕事だった。今でもたまに、蚕の世話をしている夢を見る」