絹人往来

絹人往来

高機 生活を支えた賃機 石田 久江さん(80) 伊勢崎市堀下町(旧赤堀町) 掲載日:2006/05/20


高機の前に座り、「健康でいる限り機織りはずっと続けたい」と話す石田さん
高機の前に座り、「健康でいる限り機織りはずっと続けたい」と話す石田さん

 自宅には2台の手織り機(はた)の高機(たかはた)がある。1台は納屋に、もう1台は物置のどこかに。納屋の高機はまだまだ現役だ。
 「今でもときどきこれを使ってバスマットや置物の下に敷く布を織って、知り合いに贈るんですよ。もう目がよく見えなくなって太い糸でしか織れないけれど、喜んで使ってもらっているみたい。機に座って織っていると娘のころや嫁に来てからのことを思い出す」という。
 物置の1台は義母が使っていた機を受け継いだ。機は賃機(ちんばた)として生活を支えた。賃機は機屋(はたや)さんから賃金をもらって機織りをすること。機織りが農閑期の貴重な収入源となり、生活を支えた。
 「ほこりをかぶっているだろうけど、物置のどこかにあるはず。義母が使っていた機だから随分古いでしょうね。必要ないんだけど、もったいなくてとってある。ありがたくて壊せないし、捨てられない」。いとおしそうに話す。
 旧佐波東村国定の養蚕農家に生まれた。7人きょうだいの長女。機織りは14歳の時に覚えた。
 「『教えて』と頼んで隣に住んでいた女性に教えてもらった。初めて織った布には傷があることが多いので、機屋さんからお金はもらえなかった。だけど『上手に織れた』と1円20銭もらったんですよ。うれしかったですね。稼ぐために夜なべもした」
 その女性の義母に糸をひくことも教えてもらった。近所には機を織る人はいたが、自分で糸をひく人はいなかった。家でとれた繭から糸をひいて織って、布を紺屋で染めてもらい家族みんなの着物に仕立てた。
 「嫁入りの時に持ってきた自分の着物を地味な柄に染め直して義母に着てもらった。喜んでくれましたよ。亡くなった時は、それを死に装束にして見送った」
 織物産業の衰退とともに20年前からは機を織る機会もなくなった。だが、10年ほど前から伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、子供たちを中心に機織りの指導をしている。
 「子供たちに教えるのは楽しい。機織りを教えることができるのもあの昔があったから。お世話になった人や実の親、嫁ぎ先の親に感謝だね。この年になってもまだ機織りで人の役に立てる、それがうれしい」。本当にうれしそうに顔をしわくちゃにして笑った。
(伊勢崎支局 田中 茂)