買い継ぎ商 伝統堅持へ奔走57年 田島 春男さん(72) 伊勢崎市今泉町 掲載日:2008/10/16
「何とか伊勢崎絣の伝統を守っていきたい」と語る田島さん
戦後復興が進む1951(昭和26)年、伊勢崎市内の買い継ぎ会社に奉公に出た。伊勢崎周辺は当時の日常着、絣(かすり)の大産地であり、機屋がひしめいていた。その機屋と全国の問屋を仲介するのが買い継ぎの仕事だ。
「この業界に入ってしばらくは、反物は売れに売れた。オートバイで埼玉の本庄辺りまで機屋を回り、頭の上まで積めるだけ荷台に積んで夜中に社に戻った。忙しかったけれど活気があったよ」
集めた商品を定期的に全国の問屋にさばいた。中心は大消費地の京都だった。
「今のようにすぐ荷物が届く時代じゃなかったから、急ぎの注文が入ると手に持って本庄から上野に出て夜行列車で京都に向かった。朝、ホームに到着すると問屋の人たちが待っていてくれた」
色や柄、そして品質について熱心に話し込んでいると、問屋の事務の女性たちがみな振り向いたという。「どこかのんびした京都弁に対して、上州弁は言葉が強い。こちらは普通に話しているつもりなのに、けんかしていると思われてしまったようだ」と苦笑する。
戦後復興から続いた高度成長は一方で着物離れをもたらし、ウール絣のブームが去ると扱い量は減少していく。71年、会社の倒産を機に伊勢崎織物工業組合共販部に移り、買い継ぎの仕事を続けた。「京都で移動販売会を開くなどいろいろとやってみたけれど、売り上げの減少は止められなかった」と振り返る。
共販部が閉鎖された87年に独立。着物離れが加速する中で何とか「伊勢崎」の名を売り込み続けた。「目を付けたのは地方。岡山などに足を延ばすと、量は少なくても義理で買ってくれた。ありがたかったね」
業界に飛び込んで半世紀余り。機屋の廃業が続いた結果、買い継ぎの仕事も大きく減ってしまった。10年以上前から始めた婦人服や呉服の小売りでしのいでいるのが実情だという。
それでも買い継ぎをやめないのは、機屋とともに伊勢崎絣の伝統を守っていきたいからだ。「こんな時だからこそ弱音を吐いたらだめ。売れる商品の話をして、前向きに伊勢崎の産地を少しでも盛り上げていきたいね」