絹人往来

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指導員 技術普及で地域奔走 新後閑静万さん(76) 高崎市南大類町 掲載日:2006/07/22


30年ほど前の研究発表会で使用した資料を見る新後閑さん(左)と妻のよう子さん
30年ほど前の研究発表会で使用した資料を見る新後閑さん(左)と妻のよう子さん

 「農家の人が以前より苦労しないで飼育できるようになってよかった。1キロ2500円で売れるちょうどいい時期にぶっついた。お金のために就いた職だけど、振り返ればいい仕事ができたと思う」
 新後閑静万さん(76)は農家から養蚕指導員に転身し、高崎・大類地区の養蚕業の黄金期を支えた一人。家業の米麦生産と養蚕は妻のよう子さん(73)に任せ、養蚕技術の普及で地域を奔走した。
 転身したのは1964年。同地区に稚蚕共同飼育場が作られた直後だった。ふ化したての幼虫を2回脱皮するまで育てる施設。徹底した消毒と室温管理で病気にかかる幼虫をなくし、仕入れた幼虫を効率よく農家に配れるようになった。
 「防毒マスクにかっぱ着て、台所から蚕室まで消毒液でびしょびしょにした。やってくれたのは農家の30代の若い衆。わずかな手当でよくやってくれた。彼らが、やればやるだけ金になることを行動で示したことが、技術の普及につながった」
 68年には、はちの巣状の段ボール箱「利根まぶし」を地区に初導入。床に立てると糸を吐き出す時期に入った蚕がよじ登り「空き部屋」に入っていく優れものだった。
 「指導員の会合で知り農家の人に試してもらったら『これはいい』となった。組合から補助金を出してもらうようにして、ほとんどの農家がわらまぶしから切り替えた。よそは回転蔟(まぶし)ばかりで珍しい道具だった」
 大類地区は1970年からの3年で、290戸あった養蚕農家が253戸に減ったが、収繭量は76トンから89トンに増加した。飼育技術の向上や遊休桑畑の有効活用がその要因。この間の取り組みを、新後閑さんは県内の指導員が一堂に会する研究会で高崎代表として発表、四位の好成績を収めた。発表に使った資料は今でも大事に残してある。
 「あのころ、お蚕さんを飼うのがどんどん楽になった」とよう子さんがねぎらうと、新後閑さんは「うちでかみさんがやってるのを手伝ってたから、新技術をみんなにうまく説明できた。米、麦、養蚕とかみさんは体をこわすくらい頑張ってくれた。今でも頭が上がらない」と笑顔を見せた。

(高崎支社 多田素生)