絹人往来

絹人往来

利根川 自然敬う気持ち学ぶ 桑子 喜久雄さん(76) 太田市古戸町 掲載日:2007/12/07


土手を歩きながら、利根川について語る桑子さん
土手を歩きながら、利根川について語る桑子さん

 肥えた土壌が堆積(たいせき)する利根川沿いの太田市古戸町の農家に生まれた。養蚕は父親の手伝いで子供のころから始め、40代半ばまで続けた。栄養豊富な土壌で育った葉の厚い桑と、その桑を食べて大きく成長した蚕の様子は今でも鮮明に覚えている。
 「いい桑を食べた蚕は、いい繭をつくる。化学肥料も使わないから、蚕が繭を作らないことがなかった。利根川が近くにあった古戸町は、基本的に養蚕に向いた地域だった」
 利根川に対して感謝の気持ちを持つ半面、恨んだこともあった。1947年、大雨の影響で河川がはんらん。桑畑が水にのまれたため、餌不足で父と育てた蚕が全滅した。48年にも同様の被害を受けた。両年の冬は収入を得るため、出稼ぎした。
 「もう少しで繭をつくるところまで育っていたのに全滅。涙が出るほど悔しかった。普段、利根川の恩恵を受けていながら、その時ばかりは、どうして先祖は川の近くに家を建てたんだって思った」
 「川とはこういうものだ」といった様子で、もくもくと桑畑の復旧作業にあたる父や近所の人を見ていると、川との共生を受け入れることができた。
 53年、2度の大きな被害を教訓に父の指示で大泉町に桑畑を作った。水害のリスクを軽減するための知恵だった。
 予備の桑畑は、仕事の中心的役割を父から任せられた結婚後、重宝した。何度か小さい水害やひょう害があったが、大打撃を受けることはなく、家族の生活を守ることができた。
 しかし、しばらく好調だった養蚕も、中国から安価な繭が輸入されるなど経済環境の変化で衰退。75年から、養蚕を野菜栽培や切り花栽培に切り替えた。
 また、このころに同町の河川愛護会に入会。現在も会員として年3回、利根川周辺の清掃活動を行っている。
 「利根川に恩恵をもらったり、泣かされたりした結果、自然を敬う気持ちが生まれた。こういう気持ちは大事だと思う」

(太田支社 松下恭己)