絹人往来

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親和会 固いきずな今も 渋谷 健治さん(75) 高崎市中豊岡町 掲載日:2007/4/13


親和会の名簿を手にする渋谷さん。30回の節目の会合を盛り上げたいと意気込む
親和会の名簿を手にする渋谷さん。30回の節目の会合を盛り上げたいと意気込む

 高崎市の中心部に工場を構えた「高崎製糸」の元従業員でつくる「親和会」の代表。メンバーは県内外に在住する60人で、大半が60―80代の元女性従業員。2人しかいない男性会員の1人だ。毎年4月に開かれる会合には30人以上が集まり、酒を酌み交わして昔話に花を咲かせる。
 安中市内の県立蚕糸高校を1949年に卒業して同社に入った。当時は復員者が多く、職業選択の幅は狭かった。120人いた同級生のうち、卒業時に就職先が決まっていたのは2、3人だけだったと記憶している。
 「生糸は石炭と並ぶ救国産業と教育されていた。いい会社が見つかり幸せに感じた。食糧難の時代だったので食事付きの仕事を両親がとても喜んでくれた」
 同社は西毛地区で繭を手広く集めて絹糸を製造し、国内外に出荷していた。最盛期には300人近い女性従業員が働いた。
 入社以来一貫して、ラインや工程の管理を行う「繰糸係」を務めた。生産体制強化のために朝夜2交代の労働制度の導入にあたって、旧官営富岡製糸場を視察したこともあった。
 「社員全員が寮生活を送っていた。寮が工場の敷地の中にあるため、絶えず工場のことが頭から離れず、24時間仕事をしているみたいだった。職場の同僚たちは同じ釜の飯を食って、苦労し合った仲間。それだけに従業員同士のきずなは固かった」
 勤務経験のあるOB、OGが集まり、親和会を発足したのは1977年ごろ。当初、5、6人の集まりだったが知人に声をかけて輪を広げ、当時の社長らを招待して盛大な会を開いたという。
 発足から数年遅れて会員に加わり、今では代表を務める。今月29日に高崎市内で開く会合は30回の節目。幹事の女性会員とともに、仲間の顔を思い浮かべながら案内状を送付した。
 「みんなと顔を合わせると、昔のことをつい最近のように思い出す。下の名前を呼び捨てで会話するから、当時の感覚に戻るんだろう。バイタリティーのある人ばかりで、参加する度に活力をもらえる。体が不自由になるまで続けたい」

(高崎支社 多田素生)