絹人往来

絹人往来

機屋 父が築いた信頼守る 林  弘さん(75) 桐生市東 掲載日:2006/10/3


着尺を手に当時を振り返る林さん
着尺を手に当時を振り返る林さん

 「波瀾(はらん)万丈の人生ではなかったね。今までストレスなんて感じたことなんかなかったよ。長男だから、おやじに大事に育てられたんだ。自分が苦労したから、息子には苦労させたくなかったんだろうね」
 父の午(うま)三郎さんは小学校卒業後、機屋に年季奉公し、織機の修理などを行った。その経験を生かして、20歳すぎに機ごしらえとして独立。戦後からは、着尺を専門とした機屋となった。
 「おやじは技術屋だった。頭も良くて、図案、染色、整経など、織物のほとんどの工程ができる人だった」
 午三郎さんは、地元の機屋十数軒とともに組合を設立。大島つむぎに似た「富士つむぎ」を考案した。“本家”とは違い安価だったため、これが飛ぶように売れた。組合で1日合計約200本を生産したが、常に5人ほどの買継商が出荷元である林さん宅の庭で出来上がるのを待つほどだった。
 「子供のころから見ていたが、機屋というのはもうかる商売だと思ったよ。組合で年に何回も温泉旅行をしたり、とにかくすごかった。そんなのが3、4年は続いていた」
 だが、売れる物はすぐに類似品が市場に出回り、値崩れした。それでも、午三郎さんは時代を読み、次々と「先手」を打った。絹とレーヨンを使った交織お召し、つむぎ、紋紗(もんしゃ)と品を変えながら生産。夏の帯も手掛けたり、下請けも行った。そんな父の姿にあこがれながら、織機の修理などを覚え、サポート役に徹した。
 「働きづめで大変だった。でもね、次第に織物が廃れてきて、おやじに『繊維はおまえの代でやめなさい』と言われた。先が見える人だったんだね。そのうち、女性従業員も高齢化してやめ始め、続けるのが困難になっていった」
 1986年、父が亡くなったのを機に、下請け専門となり、73歳で引退した。最後の7、8年間は妻の久子さん(75)と二人三脚で5台の織機を動かし続けた。
 「『林さんは技術がある』という父が受けた信頼を守り続けられたことは誇りだよ。工場もつぶさずに、子供も育てたしね。でも、それを支えてくれた妻には本当に感謝している」

(桐生支局 浜名大輔)