絹人往来

絹人往来

心意気 「糸のまち」復活が夢 小倉 勤さん(68) 富士見村引田 掲載日:2006/05/17


「競争が活気をもたらした」。商品取引所の会員証を手に蚕糸の全盛期を思い起こす小倉さん
「競争が活気をもたらした」。商品取引所の会員証を手に蚕糸の全盛期を思い起こす小倉さん

 前橋市内にあるマンションの一室。使われなくなって久しい生糸や乾繭の相場表が壁に掛けられている。「『お蚕なら一生食っていける』。親父(おやじ)の言う通りになったな」。小倉勤さん(68)はしまっていた商品取引所の会員証を取り出し、しみじみ半生を振り返る。
 養蚕農家の生まれ。高校、大学で蚕糸を学び、1960年、横浜市に本社のある生糸会社に勤めた。入社してすぐ、県内での取引強化のため、営業拠点を設けることになり、Uターン。今年3月末まで仕えた。
 「45年、生糸で生きてきた。おもしろかったね。暮れから正月にかけては毎年、地盤の取りっこ。大変だったけど、やりがいがあった」
 繭の出荷で農家と結ぶ契約をめぐり、県内外の業者が入り乱れ争奪戦を繰り広げた。「農家が集まる会場の縁の下にもぐりこんで、内証話を盗んだこともあった」。“時効”になったスパイ行為を懐かしむ。
 「大事にしたのは農家との信頼。雨の日も顔を出し、びっしょりになって農作業を手伝った。掃き立ての時期はずっと泊まり込んだ」。蚕を見て育ったから、苦労は骨に染み付いていた。「いつも農家と一緒。だから、地盤を取られることはなかった」と胸を張る。
 斜陽化してくると、保護が手厚くなった。「統制経済みたい。業界に競争をさせなくなった。お役所が手を差し伸べたのが逆に駄目にした。激しい時は、農家も活気があったのに…」
 会社は10年前に仲介業務をやめた。取引は続けたが、前橋乾繭取引所の流れをくむ横浜商品取引所が4月1日付で、東京穀物商品取引所に合併したのを機に、本県から完全に撤退した。
 「寂しいけど、昔しのぎを削った相手はとっくにいない。最後までやれたのは幸せ」。自分を納得させるように話す。
 マンションなど会社の資産を買い取り、管理にあたっている。第三者に渡したくなかった。「上州人の心意気」だ。
 夢も失わない。「『県都前橋 糸の市まち』を復活させたい。文化だけじゃなく、産業でも。可能性はゼロじゃない」。人脈を生かし、シルクにかかわりのある仲間たちと作戦を練っている。

(前橋支局 阿部和也)