養蚕道具 野菜栽培に転用、活躍 小磯 典夫さん(66) 太田市新田市町 掲載日:2007/10/18
「養蚕時代に使っていた道具は
今も無駄にしていない」と話す
小磯さん
「労働の対価が十分に得られるのならば、農業ほど面白い仕事はないと思う。生き物を育てるのは楽しいよ」
高校を卒業して迷わず農家を継いだ。会社勤めの経験もあるが、その間も畑の手伝いをするなど、農業から離れたことはなかった。
養蚕は1950―60年代が全盛期で、年3、4回は蚕を飼育した。周囲の農家は良きライバルであり、互いに養蚕の技術を競い合った。
「お蚕様と呼ぶくらいだから手間はかかったけれど、若かったから夢中で働いた」
66年9月、過去に経験したことのないような激しい台風が新田地区を襲った。2階建ての蚕室が大きく揺れ、温度保持と乾燥のために付けておいた練炭が気になった。
「雨と風が強まった夜、懐中電灯を持ち、練炭コンロを蚕室の2階から下ろした。母親といっしょだったが、あの時は怖かった。周りでは、蚕室が倒れて火事になった家もあり、亡くなった人もいた」
養蚕農家が多かったため、周辺1帯は桑畑が広がっていた。桑の葉を蚕にあげ、残った茎は皮をむいて乾かし、小学校に持って行った。
「繊維にして、洋服になるんだと先生が説明していた。持って行くことでお金をもらったのを覚えている」
時代の変遷とともに、農業も少しずつ変化した。トマトやスイカなど、多くの野菜を栽培するようになった。野菜栽培には消毒が必要。だが、蚕は少しでも消毒薬がかかると駄目になり、両立が難しかった。
それでも、91年まで養蚕を続けた。近隣の農家の中では長く続いた方だった。
ビニールハウスの導入とともに、農業は「年中無休」になった。養蚕の時は4眠おきから10日間が勝負だった。
今はナスやブロッコリー、ホウレンソウなど野菜が中心。だが、条払い機を野菜の選果台にしたり、モーターを再利用したりと、養蚕時代に使っていた機械は別の形で活躍している。