絹人往来

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寮母 「生活の場」後世に 森川 ●子さん(75) 藤岡市立石新田 掲載日:2008/02/05


整理したアルバムを手に寮勤務当時を振り返る森川さん
整理したアルバムを手に寮勤務当時を振り返る森川さん

 旧片倉工業富岡工場と鐘紡新町工場(現クラシエフーズ新町工場)に、寮母として通算13年間余り勤めた。2カ所とも最後の寮母だった。
 下仁田町内の開業医だった夫を亡くした翌年の1982年、自宅に子供を残して、片倉に勤めた。
 「寮生は10代後半以上だったが、40、50歳代の女性もいた。当時は十畳間ほどの1部屋に2、3人だった。部屋をすべて見て回り、交代制の勤務に出たか、体調を崩していないか確認し、工場を歩き、いじめは起きていないかも調べた。工場内を駆け回っていた」
 担当したのは女子寮。明治時代半ばから戦前にかけて建設された4棟が立っていた。1棟に働きながら定時制高校へ通う寮生が入り、2棟に一般の寮生が入っていた。
 「勤めて間もなく、ブリューナ館の中に寮管理室を用意してもらった。夜中に起き出してくる寮生もいて、何度も一緒に寝た。部屋の鍵は閉じられなかった。病気の寮生が出ると付き添った」
 「幹部や総務課の社員は建物の廊下掃除などを手伝ってくれた。空き寮の1室で開いていた料理教室の煙で火災報知機が鳴ったら、みんなが全力疾走で飛んできた」
 片倉が建造物保全や防災に特に神経を使ってきた一端を示すエピソードだ。
 年4回の繭の乾燥期には、工場内の建物に寝泊まりする遠方の季節労働者のため、多数のふとんや食器を準備した。途中からは事務も執った。
 操業停止した87年に退職。残っていた職員の紹介で鐘紡の寮母となり、8年間勤めた。
 「今もまちで会うと、元寮生が車を止めてあいさつしてくれる。本当に懐かしい」
 両工場はともに絹産業の官営工場が起源。片倉は本県の絹産業遺産群の中心構成資産、富岡製糸場として世界遺産暫定リスト入り。鐘紡の新町屑糸(くずいと)紡績所は構成資産外だが、貴重な遺産と評価されている。
 鐘紡で管理した寮は既にない。老朽化が著しい片倉の現存3棟は、策定中の整備活用計画の中で、研究者が保存・公開の可能性を検討していく。
 「保存可能な寮は残し、生活の場として果たした役割を伝えていってほしい」

(富岡支局 西岡修)
編注:●は”イベン同”