絹人往来

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凝り性 良い桑育て1トン収繭 木村でん子さん(66) 大泉町北小泉 掲載日:2007/11/14


思い出の詰まった蚕具を手にする木村さん
思い出の詰まった蚕具を手にする
木村さん

 板倉町の土地改良区事務所で働いた後、1966年に農家に嫁いだ。
 「実家が農業をやっていたので、農作業には慣れていたけど、蚕に触ることはできなかった。姿を見て、夢でうなされることもあった」。
 最初こそ蚕に寄り付かなかったが、1年ほどして慣れてくると、蚕の世話が面白くなった。
 「養蚕は女の仕事。暇を見て子供の面倒や食事の支度、洗濯など家事ができた。勤め仕事と違い融通が利いた」
 義母の下で蚕の面倒をみていたが、1970年ごろ近所に共同飼育場ができると、義母から代替わりを告げられた。
 「それからは義母や夫の手を借りながら、自分で計画して蚕を育てた。凝り性だからいろいろと試行錯誤もした」
 繭の飼育が上手な近所の家に出掛けて、茶飲み話をしながら様子を観察したこともあった。指導員の話も参考にして育てるポイントを研究した。
 「重要なのは桑の質と桑を食べさせるタイミング。脱皮する前の食べ盛りの時期に、桑を小まめにあげると蚕は大きく育った」
 蚕が活発に活動し、たくさん食べるよう温度管理も徹底した。また、しっかりと葉を付ける桑を育てるため畑には堆たいひ肥をまき、春には新芽を間引いた。
 「葉がしっかり付いた桑を作れば、枝3本分を1本で済ませられる。作業の効率化にもつながった」
 努力の甲斐もあり、4反の桑畑で1年に1トンの繭を取れるようになり、町から表彰された。
 「蚕は手を掛けた分だけ、しっかり育つ。朝6時に起きて餌やりをしたが、苦しいと思ったことは1度もなかった。いい繭ができた時は心の底からうれしかった」
 子供を千葉と長野の大学に進学させたが、貴重な現金収入のおかげで、やりくりに困ったことはなかった。
 輸入繭に押され相場が下がり、1988年に養蚕はやめたが、しばらくの間は、養蚕の夢を見続けた。
 「嫁いだころは気味悪くてうなされたのに、最後は名残惜しくてうなされるなんて。蚕は完全に生活の1部だった」
 青春を懸けた養蚕への思いは強い。

(大泉支局 宮村恵介)