守護神 豊作祈った歴史大切に 神保 侑史さん(64) 吉井町神保 掲載日:2008/08/23
江戸時代に建てられた社殿の前に
立つ神保さん
辛科神社は、毎年7月31日の夜に行われる「茅(ち)の輪の神事」で知られるが、かつては養蚕と機織りの守護神としても地域の人々にあがめられていた。
神道史を専門分野に、退職するまで県埋蔵文化財調査事業団などで文化財の調査と保護に携わった。1994年に父・茂一郎さんの死去で宮司を継いだ。
社伝によれば、神社の創建はおよそ1300年前の大宝年間。「代々、神保家が宮司を務めてきた。自分が何代目になるのか見当もつかない」と笑う。
神社の名は、所在地の「韓級(からしな)郷」という古代の地名から採られたという説が一般的だが、神保家には「神社はもともと近隣の『織裳(おりも)郷』にあった」という伝承も残っている。
神社には、どんどん焼きの後、境内に落ちている鳥の羽を拾い、その羽を使って生まれた蚕を蚕卵紙から蚕座(さんざ)に移す「掃き立て」を行うと豊作に恵まれる、という不思議な言い伝えがあった。
「豊作を願う人々の切実な願いが生み出した風習」だと考える。しかし、養蚕が下火になって、この風習を知る人はほとんどいなくなった。
「かつて周辺一面が桑畑だったが、圃場(ほじょう)整備などによって、その面影はなくなった。神保地区ではほとんどの農家が養蚕に従事していたが、今では二、三軒にすぎない」
神社の式年遷宮で使う筵(むしろ)で蚕を掃き立てると豊作となるとも伝わる。「富岡の貫前神社にも同様な伝承がある。農家の人たちが集まって筵を奪い合うように持ち帰った光景を子供心に覚えている」という。
8月には地域の子供たちが稲わらでみこしを作り、悪魔払いと養蚕の豊作を祈りながら家々を巡る行事もあった。それも数十年前に途絶えた。
神社のある古代の多胡郡では渡来人の影響で早くから養蚕が盛んだったという説もあるが、「地域で養蚕が盛んになったのはせいぜい江戸時代ごろで、神社が養蚕の神になったのはそれ以降ではないか」と考える。
「人々の暮らしの変化で神社への願い事も変わり続ける」が、養蚕とかかわりのあった歴史を大切にしたいと思っている。