絹人往来

絹人往来

養蚕教師 働きながら夢実現 南雲 とりさん(97) 渋川市赤城町溝呂木 掲載日:2006/12/15


競進社実業学校の修業証書を大切に保管している南雲さん
競進社実業学校の修業証書を大切に保管している南雲さん

 「9歳の時、学校へも行けず子守奉公をしていた。そのころ、紋付き羽織はかま姿で時々話しかけて励ましてくれる優しいおじさんがいた。養蚕教師だった」
 養蚕教師は、蚕をやっている農家を一軒一軒回り、良質な繭を多く取れるよう指導する人。この教師に「4歳から子守奉公に出て学校へも行けず、字も知らないが、将来は先生といわれる人になりたい」と相談。教師から「蚕なら学校に行かなくても先生になれる」と教えられ、養蚕で身を立てようと決心した。
 夢の実現に向け、旧勢多郡敷島村(現渋川市赤城町)の養蚕改良清水館という種屋で10代中ごろの3年間、住み込みで養蚕の基礎を学んだ。冬場は実家に戻り、「おっかさんから座繰りを学び、一緒に座繰りに精を出した。手早で器用だったので、よくほめられた」
 このころから字を覚えようと、新聞を見て、自分に必要があると思う文字を手のひらに書き、頭にたたきこんだ。「いつも手が真っ黒で、お菓子をもらう時は恥ずかしくて手を出せなかった」
 種屋での修業で、養蚕の基礎は身につけたものの、もっと専門知識を身につけるため、本県の高山社と並ぶ埼玉県の競進社実業学校へ進んだ。「当時女は本校へは入れない」と同校の第四分場で受け入れてもらった。
 「入るには入ったが、親から月謝が送ってもらえず、分場の先生の家の掃除や洗濯、子守と寝る間もなく働きながら、専門的な知識、技術をひたむきに学んだ」
 学校最後の実習で、繭があまりとれない一軒の農家を任された。「若い女に何ができるか」と言われたが、どこに問題があるのかと、飼っている豚や鶏から畑を見て回り、桑の栄養がよすぎると判断。あまり栄養のよくない根桑を使うなど工夫を重ねると成果が上がり、食事が二の膳ぜんつきの待遇になり、先生と呼ばれるようになった。
 夢を果たし25歳で結婚。知識や経験をもとに、夫と養蚕に励み、良質な繭を生産した。養蚕の衰退に合わせ、食堂経営などに転じたが、いつまでたっても蚕や繭、糸のことが忘れられず、87歳の時、昔引いていた座繰り糸を再び引き始めた。
 「今も蚕に対する思いは娘時代と変わっていない」

(渋川支局 斉藤雅則)