かすり 研究重ね「芸術品」生む 小林 俊雄さん(95) 邑楽町中野 掲載日:2007/1/27
地域の伝統織物業の全盛時を知る小林さん
現在の邑楽町中野一帯は、明治から昭和初期にかけて、「中野かすり」の産地として栄えた。機屋の3代目として、家業を手伝うようになった昭和初期ごろから、木綿の中野かすりから絹を主な材料とする大島かすりに生産の軸を移すようになった。
「中野かすりは大正末期まで特に盛んで、約140軒ぐらいの機屋があった。しかし生活様式が変わり、だんだんと売れなくなった。商売にならなくなり、昭和初期にはより高級品の大島かすりが中心になった」
それぞれの機屋が研究を重ね、生み出された芸術品とも言える中野かすり。木綿の白かすりが特徴で、「西の大和、東の中野」と称されるほど。しかし、この技術が大島かすりでも発揮される。
「大島かすりは奄美大島が本場。技術的には中野かすりの方が難しい。大島かすりは作業が細かい分、手間はかかり、もうけはよかった。本場は泥で染色するが、こちらは科学染料を用いて、本場のものより半分ぐらいの値段でできた。昭和の初め、全国織物競技会に大島かすりを出品したが、一番になったこともあった」
機屋は、糸や道具を織子(おりこ)と呼ばれる下請けの農家などに提供し、機を織ってもらい、代わりに賃金を払う。
「自分のところだけでも、昭和の初めまでは300以上の織子がいた。熊谷にも織子がいて、朝6時に家を出て、熊谷まで自転車で糸を届けた」
農業の傍ら、数少ない現金収入として機を織る人が多かった。
「夏物用は冬場に織り、冬物を夏場に織る。季節の変わり目は、少し暇になるんだけど、その時期は逆に農業が忙しくて、ちょうどいい。当時はほとんどの女の子が機を織れ、景気のいい時は、女の子が3人いれば、家が建つ、なんて言われた」
戦時中、木綿も絹も配給制となり、原料の調達は困難となった。和服から洋服に生活様式が変わったこともあり、戦後はこの地域の織物業は衰退。自身は織物業を昭和の終わりまで続けた。
「さびしい気持ちもするが、資料館でもつくる時は、物置にある道具などを資料として提供したい」
95歳になった今もかすりの伝統を伝えたい気持ちがある。