絹人往来

絹人往来

飼育所 電熱床式の導入を推進 加藤 大助さん(80) 東吾妻町矢倉 掲載日:2007/2/16


心血をそそいだ飼育所跡と加藤さん
心血をそそいだ飼育所跡と加藤さん

 旧長野原町国民学校の教師をしていたが1945年5月に海軍に召集された。訓練中に終戦、実家に戻った。
 「海上特攻を志願していた。復員すると、復職辞令が出ていて教師への道もあったのだが、特攻まで覚悟していた自分としては、とても教師になって教育をする気持ちになれず、依願退職した」
 実家では、長男の兄が戦死しており、家を継いで農業に専念することになった。
 「養蚕を手広くやっていたことから、矢倉地区の養蚕飼育所の主任として迎えられ、蚕の飼育研究などに熱中した」
 稚蚕の土室飼育を積極的に進め、蚕の安定供給に努めたが、炭を使って室温を保つ飼育法は昼夜を問わず作業を実施しなければならない重労働だった。
 「この飼育所に集まってきて熱心に養蚕に取り組む青年たちと議論するうち、自動温度調節装置を利用して電気で加温する電熱床式の導入が浮上してきた」
 仲間の七人と県などに働きかけ、新しい技術の導入と新施設の建設を積極的に推し進めた結果、51年に電熱床式が稼働した。
 「その当時、集団で稚蚕を育てる施設にとって一番の心配は蚕の病気だった。一度、汚染されてしまえば、施設内の蚕が全滅してしまうこともあった」
 当時の同地区農業経営は岩島麻と蚕、コンニャクが三本柱。蚕の収入は同地区の経済を大きく左右していた。
 「特に気を使ったのがコウジカビ病。飼育所では温度を上げ、湿度を保っているため、コウジ菌にとって抜群の繁殖環境になり厄介だった。みその仕込み時期には、飼育所に出入りする専門の当番を決め、その当番に選ばれた者はみそに近づかないよう徹底した」
 みそ仕込みに使うコウジが蚕に移る可能性が高かったからで、みそ仕込みや台所でみそを扱う女性は稚蚕時期には飼育所へは「出入り禁止」。
 「蚕を育てるのに地域が一致協力する時代だった。かつては、嫁を迎えると労働力が増えるので、その年の養蚕を増やしたが、そのうちに嫁を迎えるのを契機に養蚕を止めるようになってしまった。同時に農村社会の連帯感も薄れた」

(中之条支局 湯浅博)