母の形見 蚕育て着物手作り 山本 もとさん(90) 六合村日影 掲載日:2007/05/15
母親の作ってくれた着物を手にする山本さん
嬬恋村の農家に生まれた。8歳で農家の子守奉公に行き、満足に学校にも通えなかった。その後も織物工場に勤めるなど働きづめだった。
「テレビの連続ドラマ『おしん』を見て、そっくりだと思った。働いた給金は必ず家に持ち帰るから、年季奉公のような『前借金』だけはしないでほしい、というのがただひとつ親に頼んだわがままだった」
5人の子供を育てた母が、貧しく、忙しい中で、時間を惜しんで手作りの着物を1枚作ってくれた。
「育てた蚕から、糸を採り、山の草木を煮出して染めた。染色は染物屋に出すこともあったが、大半は自分で染めていた」
絹糸だけか、絹と木綿糸を合わせた糸で平織りにした。
「何カ月もかけて織り上げた反物を、子供1人1人の着物に仕立ててくれた。20歳の時に母から初めて着物をもらい、うれしかった」
絹の着物は貴重で、外出の時に着る晴れ着にして大切にしたという。
「76歳で亡くなるまでに羽織りなどを次々に仕立ててくれた。今でも、4着の着物を母の形見として手元に残している。働き者だった母の思い出につながる」
親類の紹介で六合村吹久保の開墾地の農家に嫁いだ。飲料水を確保するのがやっとというやせた土地で、米は作れなかった。
主な収入源は野菜栽培。厳しい生活を支える副収入が養蚕だった。農作業が忙しくなる前に春蚕だけを手がけた。
「1番心配だったのが、季節はずれの遅霜。桑の葉がやられてしまう。子供は多少ほっておいても大丈夫だが、お蚕にはきちんきちんと桑をやって丈夫に育てなくてはならなかった。大変な仕事だったが苦労と思ったことはない」
「蚕はかわいい。黒い種から少しずつ白くなって、1日1日大きくなっていく。最後には目のようなものもできてね。今でも10匹でも20匹でもいいから飼いたいね」
着物は、そんな蚕と亡き母の共作と思い、大切に守り続けている。