生業 最盛期は1トンの繭生産 田中 勝二さん(68) 甘楽町上野 掲載日:2007/1/23
「仕事が忙しく、お子さまよりもお蚕さまだった」と当時を語る田中さん
「収穫期には桑とりをしてから登校した。富岡の高校に通ったが、映画館が4つもあってにぎやかだった」
田中さんは甘楽農業高校(現富岡実業高校)を卒業後、家業の養蚕業に携わってきた。その後、JA甘楽富岡の役員を歴任するなど、長年同地域で、農家の営みの移り変わりを見続けてきた。
甘楽富岡地域の養蚕の生産高は1980年ごろには、約55億円を超えていたという。
「明治時代の花形産業とまではいかないが、昭和になっても蚕糸業は日本にとって、大切な産業として期待されていた」という。
国策の農村構造改善事業を受け、1965(昭和40)年ごろ、同地区に飼育所が設置された。
「約一千万円の費用のうち、国が7割、残りを製糸業者と種屋がほとんど出してくれて、農家の負担はほとんどなかったと思う」
当時、同地域には、片倉工業、グンサン、富岡製糸などのほか、中小の座繰り製糸がひしめき合い、生糸の確保のために農家を援助。飼育所設置も金銭的に後押しした。
そうした環境の中、田中さんは、最盛期で年間約1トンの繭を生産。同地区に約30戸あった養蚕農家でもみな、ほぼ同量の繭を生産していた。
「あのころは、『やつんちに負けるな』というような、いい意味での競争があった。飼育所もあり、共通の場所と話題で、活気に満ちていた」
田中さんは、1970年代のオイルショックのころに家を建て直した。
「養蚕造りというか、蚕室を設けた養蚕のための家。おそらく甘楽富岡地域では、一番最後に建てられた養蚕農家の住宅だろう」
現在同地域では、養蚕に代わって、こんにゃく栽培や少量多品目の野菜栽培が主流となり、農家の営みも変化した。
「養蚕に誇りをもって働いていた。一方で、仕事で、子供には寂しい思いをさせた。だが、あのころは、お子さまよりもお蚕さま。子供3人も大学に行かせられた。農家の暮らしをしっかりと支えてくれて、お蚕に感謝している」