繭糸業 農家が納得する取引を 高橋 聡さん(53) 高崎市山名町 掲載日:2008/05/13
「繭糸業には愛着があるからやめられない」と話す高橋さん
父(83)が1958年に始めた繭糸業を24歳のときに継いだ。いわゆる仲買商で、養蚕農家から繭を買い集め、製糸会社に納入してきた。
「70年ごろのピークには県内に800人近い繭糸業者がいたが、今では高崎に2人、富岡に1人きりで、全国でも3人だけになってしまった」
富岡高卒業後、大学の工学部で金属材料について学んだ。「自分の工場を持ちたいと思い、大学卒業後に1年間、工場で修業した。当時、工場を始めるには3億円が必要だった。父に相談したところ、『それなら仲買を一緒にやって金をためよう』と勧められ、この道に入った」
家業に就くため、東京農工大農学部養蚕別科で1年間、みっちり学んだ。20歳のとき、繭の売買免許を取れる最後の機会と言われて挑戦し、免許を取得したことも役立った。
「30年くらい前は、1日に1億円が動いた。年商40から50億円の時代。ピークには千軒を超える農家と取引した。各地の荷受所に行き、選繭台(せんけんだい)に繭を乗せて、良しあしを見る。触って、持って、口を付けて息を吹いてみれば分かる。最盛期には繭の受け付けに、高崎経済大の学生アルバイトを雇い、寝泊まりさせたこともある」
旧官営富岡製糸場の片倉工業にも、年10回は足を運んだ。今でも、工場のどこに何があったか、はっきり覚えている。
「父が市議会議員になったこともあって、工場設立は先送りになり、12年前、建設業を始めた。もう、繭糸だけで生計を立てるのは無理だった。2足のわらじは難しいかと思ったが、周囲の『やめないで』という声や仕事への愛着があって続けてきた。養蚕指導の資格もあるので、県から依頼を受け、県ブランドの繭『世紀二一』や『ぐんま200』を育ててもらうよう農家に働き掛け、県内に広めた」
今、取引を続けている農家は40軒。農家が納得できる確かな値段での取引を心掛けている。
富岡製糸場の世界遺産登録への期待は大きい。「世界遺産は夢。自分も絹産業の一端を担っている。最後の1軒になっても、繭糸業を続けたい」