絹人往来

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2トン 努力と工夫重ね増産 木村 清一さん(71) 太田市鳥山上町 掲載日:2007/4/14


生産を控えた回転まぶしの前に立つ(上から)木村清一さん、光江さん
生産を控えた回転まぶしの前に立つ(上から)木村清一さん、光江さん

  単独の養蚕農家として太田市で最大、全県でも有数の生産量を誇る。蚕糸産業の振興に功績があったとたたえられた表彰も多い。しかし、年間2トンに上る現在の生産量に拡大するまでの苦労は、並大抵でなかった。
 1960年に妻、光江さん(70)と結婚した。
 「国の推奨で、農地を桑畑から陸田にしたばかりだった。両親が年老いていたから、農業経営はすべて任されたが、2人で労力や収益を考え、やはり養蚕でやっていくことにした」
 しかし、思うようにいかない。61年の生産量は春、初秋、晩秋の各期を合わせて、433キロ。特に「晩秋とみそ汁は当たらない」と言われるほど、晩秋期の生産は悪かった。
 「目に見えない病気がいっぱいあった。蚕が桑を食べずに頭を上げて駄目になってしまったり。とにかく4、5年は入念に消毒するよう心掛けたもんだ」
 その後、生産量は右肩上がりに推移し、64年に500キロを突破。住宅の一部を蚕室として使っていたのを、専用のバラック小屋を建設して増産態勢をとった。
 増産を目指す上で、注意したのは小屋が「座蒸れ」を起こす環境を防ぐこと。蒸れは膿(のう)病につながり、周囲の健康な蚕を病気に巻き込む。
 「小屋は風通しが良くなるようにした。慣れてきて消毒の手を抜くと、蚕が腐ったりして、失敗したこともあった。だから、飼育中の上じょうぞく蔟室には入らないようにした」
 努力のかいがあって、生産量は70年には1トンに達した。この年から、生産期を年5回とし桑園の能率を向上させるため、土づくりにも気を配った。機械や薬剤を適度に導入して、作業効率を高めるよう努力した。2トンを超えたのは77年だった。
 「自分の家の桑だけじゃ足らなくなってしまった。近所の桑畑を借りるようになった。皆の情けを受けた」
 以降、生産量は伸び悩んだものの、2トン前後のペースを保っている。
 「車をバックで入れやすいようあぜ道を造るとか、ちょっとした点に気を配ると作業効率が上がった。養蚕一本で来た。これからも、工夫して省力化しながら続けていきたい」
 養蚕とともに歩んだ人生に悔いは無い。

(太田支社 塚越毅)