絹人往来

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共同飼育場 恐い伝染病 予防徹底 茂木 郎さん(89) 安中市松井田町小日向 掲載日:2007/06/01


かつて養蚕を手掛けた納屋で語る茂木さん
かつて養蚕を手掛けた納屋で語る茂木さん

 「見渡す限りの畑という畑が桑で埋まっていた」という環境で生まれ育った。大正末期は男性の働き場が少なく、当時近隣にたくさんあった製糸場に母が勤め、家計を助けていた。
 「父が繭を長野県まで行って売り歩いたが、あまり売れなかった。子供ながらに大変な仕事だと思っていた」
 7人きょうだいの長男。小さい弟や妹を背負いながら旧制高等小学校に通い、卒業後すぐ近所の大きな養蚕農家で働いた。
 「子供は労働力と見なされていた時代。長男で何とかしなければという思いもあり懸命に働いた。昼間は刈り取った桑の枝を荷車に乗せて駆け回り、夜は12時近くまで葉をもいでいたこともあった」
 1939年6月、「明日いよいよ上じょうぞく簇する」という日に旧陸軍へ招集され、中国に3年半駐留した。
 「補充要員だった。同じ部隊の仲間はその後ニューギニアの戦線に赴いて全滅したという。私は運よく復員し、故郷で結婚して子供もできた。一家を支えるため本格的に養蚕に取り組もうと思った」
 48年には小日向地区の大部分の養蚕農家が参加して稚蚕共同飼育場を作った。
 「(安中市)郷原に県の技師が来て、近隣の農家とともに1週間ほど泊まり込みで指導を受けた。それぞれの農家で育てるより効率的にできた。室内の温度を保つため、熱が逃げないよう目張りするなどさまざまな工夫をした」
 飼育する量によって割り当てを決め、交代で管理に当たった。3年目に初めて、蚕が伝染病に襲われた。
 「3齢期あたりで次々と死んでいく。恐ろしいものだった。穴を掘り死んだ蚕を次々と埋めていったが、本当に悲しかった」
 以後、手洗いや衣類、飼育部屋の消毒を徹底するようになった。
 やがて共同飼育場から離脱する農家が増え、95年に廃止した。自身はその後も5年ほど養蚕を続けた。
 飼育場用の桑を栽培した桑園は公園になった。地元住民で公園の管理組合を組織しホタル池を整備するなど、思い出の場所を守り続けている。

(安中支局 正田哲雄)