4回飼育 繁忙期家族が一つに 井上 弘巳さん(75) 片品村幡谷 掲載日:2007/11/09
桑の葉を2階に上げる昇降機の横で「養蚕は家族が一つになる環境をつくってくれた」と語る井上さん
「育ち盛りの小さな蚕は、どんどん桑の葉を食べる。だから、桑を絶やさないようにずいぶん気を使った。3ミリぐらいだった幼虫が1カ月で人さし指ぐらいになるんだから。あっという間に大きくなる」
55歳まで35年間養蚕を続けた。片品村の養蚕農家では、春蚕(はるご)と秋蚕の年2回の飼育が主流だったが、購入していたえさの桑を安定的に確保するため、自宅に桑園(そうえん)を整備し、飼育する蚕の数を積極的に増やした。
50歳になってからは、夏蚕、晩秋蚕も手掛け、年4回出荷するようになり、村でも指折りの大きな養蚕農家になった。
生家は雑貨店で、農業高校に進んで初めて養蚕を学んだ。実際に職業として取り組んだのは、養蚕農家を営んでいた妻・かねさん(75)の家に婿入りしてからだった。
「高校の実習で経験していたが、最初は見よう見まね。失敗や試行錯誤の連続だった。いざ実践となると相手は売り物だからね。手は抜けない」
自宅の桑園(そうえん)も増やしながら、桑の葉を母屋2階に運ぶ昇降機も設置。母屋とは別に飼育室も作り、場所が足りないときは、茶の間の1部も使って蚕を育てた。
養蚕が忙しくなると、朝4時起きで夜11時まで蚕に付きっきりだった。
「1日の作業の段取りをしっかり決めてやらないと回っていかない。仕事の手順を把握することが勝負だった」
養蚕は、当時の貴重な現金収入だったので、田植えのシーズンでも手を抜かなかった。麦や大豆、あずき栽培も手掛け、冬場は炭焼きや薪(まき)を売ったが、当時の生活の中心はやはり養蚕だった。
「年4回の出荷は村でも数軒ぐらいだったと思う。1971年には、収繭量が村で1番になった」
「手が足りなくて、娘3人にも、食事の準備や掃除、風呂たきを分担してもらった。今思えば、家族が1つになって一生懸命に力を合わせて働いた時間だった。頑張った分だけ、いい繭をたくさん出荷できた。苦労はしたが、養蚕は家族が一緒に成長できる最高の環境をつくってくれた」