絹人往来

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長屋門 製糸所はあこがれの場 板橋 房枝さん(84) 桐生市黒保根町 掲載日:2006/06/06


重厚な造りの長屋門が製糸所の隆盛を物語る
重厚な造りの長屋門が製糸所の隆盛を物語る

 国道122号を日光に向かい、わたらせ渓谷鉄道水沼駅を過ぎると左手に桐生市黒保根支所がある。その奥に見える重厚な長屋門が民間初の器械製糸の水沼製糸所跡だ。
 「工場はガラス戸だったので、糸を引いている工女の姿が見えた。釜から糸を手繰って最初の一本を引き出す作業を難なく行っていた。手際が良くサッサッと進み、見ていて面白かった」
 近所で生まれ育った板橋房枝さんは、工場内で遊んだ子供のころを振り返る。明治後期に閉鎖した旧水沼製糸所の役員集団が起こした甘楽社水沼組のころ。昭和初期だという。
 9人兄弟で三人の姉たちは同工場で働いた。「2年上の人までがここに就職できた。当然私も行くと思っていたが、閉鎖になってしまい夢はかなわなかった。女性の職業は少なく、あこがれの職場でした。なれない人は桐生の機屋で子守をするのが普通だった。年季奉公で4年で200円でした。不思議とその額は覚えています」
 姉の一人は、まゆを煮ておく仕事だったので、朝5時に起床、それが終えるといったん自宅に戻り朝食をとっていた。
 当時の記念写真を見ると工女は百人ほど。それが制服だったのか、全員が着物に帯を締め、上から白いかっぽう着を羽織っている。指導と監視役の教婦(きょうふ)がはかま姿で工場内を回っていたという。
 「工場内は静かだった。昔の人はまじめ。黙々と作業をして、隣と無駄話をしている風景を見たことがない。午前10時と午後3時にチリン、チリンと鐘が鳴り、作業を止めて麦茶を飲んでいた」
 長屋門は以前はもっと大きかったと言う。「2階は寄宿舎になっており、多くの工女が生活していた。長屋門を入ると、目の前が工場。裏に乾燥場、揚げ場があった」。今では長屋門以外すっかり姿を消してしまっている。
 釜場で使う石炭は水沼駅の石炭場から馬で運んでいた。馬の背に袋を振り分け、その中に石炭を入れて運んだ。荷車が入れないほど狭い道なので何回も往復していた。
 「馬方さんは若い男性で、手ぬぐいをキリッと巻いて、頭の横にチョンと端を立てていた。粋だった」。シャツに半纏(はんてん)、下はもも引き。そして半纏には「甘楽社水沼組」の文字が染め抜かれたという。

(わたらせ支局 本田定利)