読者から「絹の記憶」 掲載日:2007/1/9
◎采配振るう母の姿 上原高行さん(87) 安中市松井田町
旧秋間村(現安中市)の養蚕農家に生まれた母の上原婦(ぶ)ん(旧姓戸塚)は、県立高等女学校(高崎)を明治43年に卒業。ただちに富岡海野裁縫所に学び、1年で全科を卒業。次いで家庭に入り、祖母すみから糸取り、機織りを伝授された。教本はすみの手作りである。
嫁いだ松井田町の上原家は、富岡貫前神社の唐銅製大灯籠(とうろう)建立の発起人、上原清七の分家で、大養蚕農家であった。しかし、男主人は農事には手を貸さぬ家風であったので、養蚕の稚蚕期のほかは、もっぱら母が雇い人の采配(さいはい)を振るった。
農閑期には自宅で村の子女に裁縫を教える傍ら、養蚕を続けながら糸取り・機織り・仕立てもした。時代が変わってからは、一人座って成人式用礼装なども仕立てていた。この収入は謡曲の会のほか、孫たちを喜ばせるために使われた。孫が生きがいであったらしい。
98年の生涯の大部分は蚕との共生であった。
◎屋敷に遅霜対策の桑 斉藤寛三郎さん(67) 前橋市西片貝町
5月上旬に家(旧勢多郡桂萱村)のお蚕の飼育が始まると、広い八畳の間は蚕室になった。家族は薄暗い奥の6畳間へ移り住むため、子供心にお蚕は嫌いだった。
米麦と養蚕が中心だった多くの農家は、一面の桑畑とは別に、遅霜が降りた時への用心のため屋敷内に大きな桑の木を何本か植えていた。高枝の桑には霜の被害が及ばないので、霜害時の大切な役目を担っていた。桑の木は、屋敷の隅などに植えられていて、普段はあまり目立たない存在だったが、終戦後間もないころ、背丈ほどの高さのところにアラゲキクラゲがたくさん生えた。
当時は食糧難の時代だったから、近所に住んでいた非農家の人が、桑の木のキノコを採らせてほしいと言って来て持ち帰って行った。そのころ、桑の木のキクラゲが食べられることを知っていた人は、おそらく少なかったと思うが、桑の木に生えた変なキノコを食べる人がいたので今でも記憶に残っている。
◎娘や孫も着物好きに 内田弘子さん(74) 伊勢崎市波志江町
私の絹の記憶はそれほど深いわけではありません。養蚕は農家の収入源として、なくてはならない生活の副業ですが、私が小学生のころ、父母が野菜作りに切り替えたことで、私の心に蚕の思い出はたち切れました。
成人して嫁いだこの地は、養蚕はもとより、銘仙で有名な機場伊勢崎です。今では機織りはもちろん着物離れで、近くに養蚕農家はなくなりました。当時はどの家庭でも朝から晩まで機織りの音がして、女は日銭を稼ぐ家計の担い手とされており、私のように機の織れない者は肩身の狭い思いをしました。
嫁入り道具の着物も自分で織った白生地を、染めて持って来た人もいたようです。その中で母は何とか工面して着物を作ってくれ、その中には伊勢崎銘仙も何枚かありました。
今は着物好きに育ってくれた娘や孫に、昔の風合いを残した新しい伊勢崎銘仙をあつらえ、着物が出来上がるのを楽しみにしています。
◎着物にこもる両親の思い 清水せんさん(90) 太田市飯田町
私の母は明治25年生まれでした。当時は小学校4年、高等科4年で、学校へ行かなかった人もいたそうです。
母が高等科を卒業したころ、新田郡農会の主催で、糸や繭の講習会が開かれたそうです。県から講師が来て、座繰りによる糸の取り方、出来た糸を操作した織り方なども教えていただいたそうです。母は清水家に嫁ぎましたが、こちらも農業兼養蚕をしておりました。
その後、姉と私と妹と3人の女の子に恵まれ、父は養蚕組会長をして、熱心に蚕を飼っておりました。繭は大変な収入になり、農家を潤しました。父と母で話し合って、3人の娘のためにと、上繭だけを売り中繭は母が全部糸にして機を織り、絹の着物をいっぱい作ってくれました。平絹、綾(あや)織り、縮緬(ちりめん)など、子供たちが10歳くらいの時から準備して絹の着物をいっぱい持って嫁入りしました。今でも縮緬の派手なのを染め直して自分でスーツに仕立てたものがあります。
◎工場の煙突が林立 水間はる子さん(89) 前橋市城東町
新聞に生繭の養繭農家のことが出ていました。今思うと、私が住む城東町の一丁目から五丁目には、糸に関係した家がたくさんありました。諏訪神社を中心に東西南北に製糸工場、製糸家が並び、母の志津も長く座繰りで玉繭を引いていました。町を歩くとどこへ行っても製糸のにおいが漂っていました。
わが家は神社の裏側。すぐ北西の佐久間川に沿って大きな丸交組製糸、南西の広瀬川沿いに交水社があった。製糸、集荷仕上げ、梱包(こんぽう)して、横浜から海外に出したようでした。
糸の町として栄えた前橋では、空を見上げると、工場の煙突が林立していました。私が15歳の時、母は座繰りから2枠の糸取り機に変えました。昭和不景気、終戦前の苦しい時代、私たち庶民の生活は潤いました。
10年前、座繰り屋さんから、母の思い出にと新しい座繰り機を買いました。今、私は89歳。若い時は織都伊勢崎で働いたこともあり、体の中はシルクの思い出がいっぱいです。