絹人往来

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稚蚕飼育 父の技術と責任感継承 渋沢 和義さん(77) 伊勢崎市境島村 掲載日:2007/12/25


蚕種が入っていた道具を手に「おやじの技術は誇り」と話す渋沢さん
蚕種が入っていた道具を手に
「おやじの技術は誇り」と話す
渋沢さん

 父の栄吉さんの仕事を受け継ぎ、稚蚕飼育専門でやってきた。委託された蚕種を2眠まで、1週間ほど育てる。温度調節や桑のやり方など、養蚕の中でも特に難しいとされる稚蚕。蚕が眠に入る時機をぴったり合わせ、しかも丈夫に育てなければならないからだ。
 蚕の発育が悪ければ、出荷した養蚕農家にも影響を及ぼす。それだけに仕事は慎重に丁寧にしてきた。稚蚕の仕事を始める前には家の中をきれいに磨き上げ、清潔な状態で作業にかかった。
 「うちの蚕でうまくいかなければ、1つの養蚕農家を駄目にしちゃうこともある。夜も眠れないとは言ったもので、天候不順のときは夜中でも温度調節に忙しかった。自分が寝てて、蚕も起きなかったなんて困るからね」
 最初のころは蚕種800グラムほどで始めた。だんだんと拡大していき、最盛期には3000グラムまで手掛けた。春蚕(はるご)から夏、初秋、晩秋、晩々と年5回。島村地区では1番遅く、1970年代まで稚蚕を続けてきた。
 仕事の師匠は栄吉さんだった。あれこれ教わった訳ではなく、一緒に仕事をしているうちにだんだんと覚えた。分からないことを聞けば、必ず的確な答えが返ってきた。
 「病気で体が弱ってからも、聞きに行くとうれしがるんだ。いろいろアドバイスしてくれてね。雨が続いた時に桑のくれ方を聞いたら、『梅雨っ桑なんか怖がることはない。空気の流れをよくして、防寒紙は外してやれって。そうすれば絶対大丈夫だって』」
 「おやじの言うことはいつも正しかった。怒鳴られたりさんざんこき使われたりしたけど、難しい技術もいつの間にか身に付けた。これが親のありがたさかな」
 栄吉さんは出荷した先の養蚕農家を見て回り、飼育のアドバイスもしてきた。自身もその方法を踏襲し、稚蚕農家の仲間と時機を見ては回った。
 「自分の蚕に最後まで責任を持つ姿を見せたから信頼された。おやじは『欲をかいちゃ駄目だ。力の8割でやれ。千グラムできても800グラムで止めろ』と言っていた。言われたことを守ったからこそ、養蚕農家にもいい蚕を届けられたと思う。おやじは本当に蚕が好きだったんだ」

(伊勢崎支局 高瀬直)