絹人往来

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蚕糸の光 最新情報全国に発刊 後閑 縫之介さん(81) みなかみ町月夜野 掲載日:2007/2/7


自宅に残る雑誌「蚕糸の光」を手にする後閑さん
自宅に残る雑誌「蚕糸の光」を手にする後閑さん

 自宅はかつての庄屋で、500貫近い収繭量を誇った養蚕農家。江戸時代の古文書から戦後直後の雑誌まで、養蚕に関する資料を数え切れないほど所有している。資料の中でもカラー表紙のA5判ほどの雑誌がひときわ目立つ。かつて自ら編集に携わった雑誌「蚕糸の光」だ。
 「東京高等蚕糸学校(現東京農工大)を卒業して、戦後は農林省資材調整事務所に勤めるなどしたが、大学の先輩に誘われて編集の仕事を手伝うようになった。編集部は東京・日比谷の蚕糸会館内。隣は連合国軍総司令部(GHQ)というまさに東京のど真ん中で仕事をしました」
 「蚕糸の光」は全国養蚕農業協同組合連合会(後にJAへ統合)で発行していた月刊誌。養蚕の最新情報のほか、小説、イラスト、レジャーのコーナーまであり、当時全国で約10万部を発刊していた。
 「さっそく農林省の雑誌記者クラブに入ることになった。当時は新聞と雑誌で記者クラブは別々。発売日には省内各課に雑誌を配って、あいさつ回りをした。あのころは養蚕の雑誌、新聞がけっこうあったので、読者を増やそうと懸命だった」
 仕事は政財界トップへのインタビューから製糸会社への取材、レジャー欄に掲載する小説や詰め将棋の原稿取りと多岐にわたった。締め切り前には多忙な日々が続き、自宅に帰るのはいつも終電間際だった。
 「若き日の中曽根康弘元首相から落語家の柳家小さんさんなどさまざまなジャンルの人に会えたのが楽しかった。一番大変だったのが、養蚕指導用スライド『蚕の飼い方』の原稿を作った時。農家に分かりやすいように難しい言葉を使わない原稿を作って、製作する映画会社に毎日通い詰めました」
 編集部勤務は3年間に及んだ。しかし、長男だったことから1953年に帰郷、利根農林高校の教員として農業と社会を指導した。
 「その後養蚕と離れてしまったが、蚕糸のことを忘れることはなかった。亡くなった父もいつか『蚕糸図書館』を作りたいと言っていた。養蚕の良き時代を知っている人が少なくなった今、機会があれば自分の経験を文章にまとめてみたい」

(沼田支局 金子一男)