絹人往来

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養蚕指導 収量安定に力注ぐ 野尻徳二郎さん(73) 安中市磯部 掲載日:2007/1/10


指導員として農家と触れ合った日々を語る野尻さん
指導員として農家と触れ合った日々を語る野尻さん

 旧安中蚕糸高を卒業し、1956年に碓氷安中蚕糸販売農業協同組合連合会(碓氷安中養蚕連)に就職、養蚕指導員として農家と共に歩んだ。
 「当時は職員が24人いて、現在の新島学園北側の本部に5人、あとは各地の農協に指導員が駐在した。碓氷安中では東横野、原市、秋間、後閑が特に農家数が多く駐在員も複数いた」
 当初は秋間の支所で先任の下で学んだ。昭和30年代(1955―64年ごろ)は養蚕の転換期で、生産の安定のために稚蚕期の共同飼育場ができ始めたころだった。
 「『晩秋蚕とみそ汁は当たったことがない』と言われるように、特に晩秋蚕の作柄は悪かった。共同飼育場では農家が当番制で世話をした。何より怖いのは病気。蚕室の消毒は念入りにやった」
 6年後、旧松井田町の山あいにある細野の支所に一人で赴任。オートバイにまたがり、毎日農家を小まめに回った。
 「およそ400戸の養蚕農家があった。山間部だから大規模な農家は少ないものの、一人きりの仕事は大変だと思っていた。しかし温かく迎えてくれて、農家によってはこたつに入ってご飯を食べさせてもらったり、親せき以上の付き合いをさせてもらった。結局12年間もお世話になった」
 仕事ぶりが認められ、異動時期には農協の組合長が引き留めを図ることもあったという。73年に最も大きい東横野の支部に抜てきされた。
 「比較的平たんなので大規模な農家が500戸あった。細野では収繭量年間10万キロを目指すのがやっとだったが、東横野は33万キロに達する、県内でも5本の指に入る大規模な農地だった。収量を保たなければという重圧感があり、とにかく懸命にやった」
 蚕を実際に飼育するのは高齢者が多いため、70年ころから一層の省力化、効率化が求められるようになった。
 養蚕農家が少なくなった86年、連合会は解散し職員はJAに移籍、野尻さん自身も退職した。
 「共同飼育場は時代の流れで閉鎖していったが、みんなで集まる楽しみや近所の憩いの場的な役割もありました」

(安中支局正田哲雄)