孫と蚕飼育 「50年ぶり」記憶は鮮明 山田 雅一さん(70) 高崎市八幡町 掲載日:2008/01/18
「蚕を通じて子供時代のことを思い出す」と話す山田さんと、入賞した「繭クラフト作品展」の賞状を手にする孫の要ちゃん
「あまりの懐かしさに、子供のころの家や家族の様子が次々と思い浮かんできた」
3年前から毎年夏に、小学生の孫と一緒に蚕を飼っている。孫が出品する日本絹の里の「繭クラフト展」に向けて、材料となる繭を作るためだ。
絹の里からもらった体長2、3センチの蚕20匹を、底に新聞紙を敷き詰めた縦25センチ、横35センチ、高さ20センチほどの段ボール箱で育てる。
「湿気がひどいと蚕が病気になるから、風通しのいいところに置くんだよ」「餌を切らしちゃだめ」。孫に手取り足取り教えた。数週間後、蚕すべてから繭を取ることができた。
「初めに孫が蚕を持ってきて飼い始めたときは、本当に懐かしかった。蚕を見たのもおそらく50年ぶりくらい。ただ、餌が桑の葉じゃなくて固形飼料だったのには時代の差を感じ、少し味気なかったね」。
1937年、旧鬼石町の農家に生まれた。藤岡市内の高校の農業科を卒業、実家を5年ほど手伝った後は会社勤めになった。
「実家は蚕を飼っていた。夏の間は蚕小屋のほかに、家の八畳の部屋四つの畳をはがして育てた。自分たちは残った狭い部屋に追いやられ、大人数で寝ていた。朝は蚕が桑の葉をかむ音で目が覚めた」
養蚕の手伝いをした記憶はあまりないが、道具の名前や飼育方法は詳しく覚えていた。
「わらまぶしから繭を取るとき、たまに死んでしまった繭を拾うことがあった。その時の茶色液の臭さは強烈だった」
いくつかの場面はいまでも感覚が残るほど印象に残っているという。
本県の絹文化の行方については前向きに考えている。
「値段の安さでは中国製品などにかなわない。特性のある生糸もできているし、魅力ある品質の良い製品に特化することで生き残れるのでは」
昨年の「繭クラフト作品展」では、孫の作品が3年連続で賞に入った。四年連続に向けて、来年も蚕を飼うことを楽しみにしている。