養蚕指導 人工飼料開発で生産増 後閑 重雄さん(69) 高崎市飯塚町 掲載日:2006/11/18
県稚蚕人工飼料センターの桑葉粉砕機を見る後閑さん
旧群馬町国府の出身で、大きな養蚕農家の四男として育った。
「子供のころは、お蚕と一緒に寝る生活だった。家の手伝いをするのは当たり前の時代。桑摘みや桑くれなどをやらされたが、子供心にも重労働なのがよく分かった」
効率のよい養蚕の確立に寄与できれば、との思いから東京農工大繊維学部に進んだ。卒業後は群馬高崎養蚕連合会に就職、主に養蚕農家を回って生産の向上に多面的なアドバイスを行った。
「当時は共同稚蚕飼育所が各地にでき始めたころで、建設指導などもやった。だが、農家の中には反対する人もいて、説得するのにずいぶん苦労した」
1977年に県養蚕農業協同組合連合会が、稚蚕人工飼料の実用パイロット事業で飼料の製造を始めた。これを機に、指導者として同連合会に引っ張られ、人工飼料の製造と普及に携わった。
「人工飼料の開発は本当に画期的だった。県蚕業試験場が研究を始めたのは61年で、15年以上かかったことになる。民間企業も研究を重ねて実用化に踏み切ったが、うまくいかず撤退した」
蚕に人工飼料を与えるのは3齢までだが、40以上の成分が含まれていて栄養価が高く、順調な成育が期待できる。
「自然の桑に比べて病気になりにくく、作柄も安定するようになって、稚蚕飼育所にはとても喜ばれた。もちろん、省力化にも大いに役立った」
繭の生産量を増やすため、あれこれ考えて農家に実践指導した。
「従来は春蚕、初秋蚕、晩秋蚕の年3回の飼育だったが、夏蚕と晩晩秋蚕、冬蚕を加えて年6回の飼育ができるよう、時期に合わせた桑の栽培方法などを指導した。その結果、大規模の養蚕農家がずいぶん増えた」
感慨深いのは、年間10トンの繭生産農家をつくることに汗を流したことだった。
「前橋、富岡市、旧月夜野町の3戸の農家を対象に施設整備から自動桑切り機、給餌(きゅうじ)機などの機器導入、飼育方法まで手に取って指導した。今でもその3軒が、繭生産量で県内ベスト3を占めている。ちょっぴり誇らしい気持ちになる」