絹人往来

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機拵え 経糸操作の枠物つくる 佐藤 信康さん(78) 桐生市東 掲載日:2006/11/30


手早い指さばきで、縦針に通糸を掛ける佐藤さん
手早い指さばきで、縦針に通糸を掛ける佐藤さん

 「機拵(はたごしら)えは、経糸を操作する『枠物(かぶつ)』をつくる。縦針(たてばり)に通糸(つうじ)を掛け、下がった矢鐘(やがね)の綜絖(そうこう)に経糸を通す。枠物をジャカード機にセットするまでが機拵えの仕事。それから機織りが始まる。ジャカードの命令で経糸が上下して、そこに緯糸が通り織物ができる」
 実家は「佐藤機拵(きそん)業」を営んでいた。18歳から機拵えとして働き始め、数年後に3代目となった。1950年ごろには「お召し」を中心とした着物ブームが訪れ、仕事も急激に忙しくなった。
 「機拵えの仕事は、織物の種類によってまったく違う。ネクタイなど洋物に使われる広幅、お召しなどの小幅に分かれる。ネクタイなどは経糸が1万本、比べてお召しは4千本。だいたいどちらかを専門にする機拵えが多かったけれど、うちは両方やっていた」
 10台の仕立て場を備え、従業員は家族を含めて8人。市内以外にも新潟から仕事を受けるなど、常に20件の注文をこなしていた。
 「当時は本当に忙しく、夜2時前に寝たことはなかった。1万本もの糸を扱う作業は細かくて、集中力が必要だった」
 当時、最も注文が多かったのは「お召し」の機拵え。特に、経糸をねじって穴をつくることで軽さをだした「紗(しゃ)」は、着物の羽織として人気を呼んだ。
 「『紗』はお召しの薄物で、とても高級。機拵えするのも技術が必要だった。織るためは、経糸をねじるための『ふるいいと』をつける。『ふるいいと』は絹糸を使っていたため、織っているとすぐ切れてしまった。『紗』がブームだったころは、これを交換する仕事がとにかく多かった」
 現在は個人で6件ほどの注文を受けている。仕立て場は1台分しかない。以前は2人で行っていたという作業を今は1人でこなす。
 「八王子、京都、山梨、沖縄など全国から注文が来るため、仕事がある限りは最後までやるつもり。お召しの機拵えは複雑で、できる人もすくなくなっている。できれば、後継者に技術を譲りたい」

(桐生支局 高野早紀)