竹かご 養蚕で使った桑運ぶ 中野 作一さん(85) 藤岡市本郷 掲載日:2006/11/21
桑を運んだ竹かごを手にする中野さん
車庫やコメの乾燥などに使っている物置の二階に、今でも養蚕で使った桑を入れる竹かごが保存されている。
「朝早く起きてカイコに桑をくれたり、一息入れて、朝食はいつも午前9時ごろだった。夜も遅くまで働いた。最初は飼育が難しく、いろいろ失敗したが、稚蚕の共同飼育所が地域にできてからは楽になった」
数十年間、養蚕をしながら生活した築約100年の母屋は、孫夫婦が家を建てるため、8月に取り壊した。仕事として汗を流した養蚕と生活の日々が脳裏によみがえる。
農家の二男に生まれた。後継ぎの兄がいるため、家を出て東京の化粧品会社に就職した。
「定年まで勤めたら古里に戻り、のんきに暮らそうと思っていた」
ところが、戦争で状況が一転した。徴兵されて五年間、戦地で過ごし、兄は中国東北部で他界した。終戦後、家を継ぐために帰郷し、父の文三郎さんと農業に従事することになった。
「当時はナスやコメを作っていた。食糧難だったからよく売れた」
妻のいくさん(87)とは1947年に結婚。しばらくして母屋で養蚕を始めた。ナス栽培をやめて、その畑を桑園(そうえん)にした。物置にあった竹かごは、桑を運ぶのに使っていた。
「共同飼育所は五つの集落、約100戸の養蚕農家が利用し、その代表も務めた。養蚕に力を入れる中で、飼育場所が足りなくなり、広げていった」
最初は母屋の1階だけだったが、次第に2階、敷地内の小屋、物置へ。野外でも飼った。母屋は二男二女の子供を育てた生活の場であると同時に養蚕の仕事場だった。
「寝室の横で飼っていたカイコが寝ているところ入ってくることもよくあった。子供たちも仕事をよく手伝ってくれた」
飼育中は温度調節のために暑い時は家の扉を開け放ち、寒い時にはストーブをたいた。
「蚕室から火事を出した農家もあったが、うちは幸いにも火を出さなかった」
養蚕は10年前まで続けた。「仕事だから大変だったとか、良かったとかという思いは特にない。でも、小さい時のカイコはかわいかった」