規模拡大 減反政策利用し桑畑に 堀越 一夫さん(73) 太田市鳥山下町 掲載日:2007/4/8
養蚕道具を手に当時を語る堀越さん
太田高校を1952年に卒業したが、体の弱い父親の仕事を手伝うため、進学をあきらめて農業を継いだ。
「大学で勉強したかったけど、当時農家の長男は家を手伝うのが当たり前。我慢したよ。ただ、自分が卒業したのは普通学校だったので、初めは農家の知識がなくて苦労した」
最初のころは慣れない養蚕にてこずったものの、父親の指導ですぐに仕事を覚えた。同町の農家の約8割にあたる40軒が養蚕を営んでいたのも、短時間で蚕の飼育法を学ぶことができた要素だった。
「自然と覚えたよ。それにうちの繭の出荷量は周りと比べて少し多いくらいだったから、すごく大変というわけではなかった」
40歳で父親から経営を任されると、思い切って規模を倍以上に拡大し、同町有数の養蚕農家になった。子供も成長し、教育費がかさむようになったのに加え、養蚕を後押しするような時代の流れもあった。
「米より繭の方が高く売れた時代だったから、当時、国が進めていた減反政策を利用して田んぼ2200平方メートルを桑畑に変えた。工場も伸び盛りの時代で、土地が隣の規模拡大中の工場に売れたから、少し離れたところ2カ所に土地を買って桑畑にした。大量に蚕を飼育するために十分な桑を確保できた」
「また、ほとんどの農家が養蚕をしていたため、技術が進み、効率よく飼育できる機械が次々と誕生した。稚蚕共同飼育所も手間や苦労を省くのに有り難い存在だった。もちろん、自分自身で給桑回数を増やして繭の出荷量を多くする工夫もしたよ」
減反政策や技術の進歩を追い風にした規模拡大が成功し、病気で養蚕ができなくなる15年ほど前まで続けた。
「飼育所の増築など多額の先行投資が必要だったけど、時代の流れを感じたし、全く不安はなかった。振り返ってみても拡大してよかったと思っている」
自宅敷地内の物置には、養蚕を支えた多くの道具が保存されている。