絆 共同飼育で一体感 坂本 敏明さん(79) 大泉町寄木戸 掲載日:2007/3/10
回転蔟を手にする坂本さん
「近所の人たちと協力して養蚕をしたんだ。本当に団結してたよ」
地区の人たちと共同飼育場で蚕を三齢まで育て、絆(きずな)を深めた40年前を振り返る。
年5回掃き立てし、春から秋までがむしゃらに養蚕に打ち込んだ。
「5月に春蚕を上げて、すぐに麦刈り。田植えを終えると、夏蚕が始まった。お盆のころには初秋蚕があって、8月末には晩秋蚕。最後に晩々秋蚕と稲刈り。休む暇なんてなかったよ」
特に、蚕が繭を作る直前は目の回る忙しさだった。
「5人雇っても昼食を食べる暇がなかった。蚕が一斉に繭を作るから、全部を回転蔟(まぶし)に入れるまで手を休めなかったんだ」
三齢までの蚕は近所の30数戸でつくった寄木戸南飼育場で育てた。蚕の世話は当番制で、泊まり番も含め、当番になると10日間連続で世話をしたこともあった。
蚕種3000グラムを育てた飼育場では、館林からも委託を受けた。無理をしてでも委託料を稼いだ。桑がない時は渡良瀬まで買いに行き、東奔西走して蚕を育てた。
「苦労も多かったが、配蚕前夜にはお祭りのようなどんちゃん騒ぎ。近所の人たちとの共同作業で一体感を感じた」
養蚕は、手っ取り早く現金を得る手段だった。
「飼育場から家に持ってきて1カ月で出荷できた。元値はいくらもかからないんだからもうかった」
しかし、いい時期はいつまでも続かなかった。一時は1キロ2600円まで上がった繭の値段は、1000円前後にまで下落。そのころ、蚕の餌が桑から人工飼料に移行。養蚕にも変化の兆しが出てきた。
人工飼料を使っている太田地区の飼育場を見て回り、幕を引いた。
「飼育場を改造するのは手間がかかるし、繭の相場が好転する見込みもなかった。潮時だったんだ」
5反あった桑畑はほとんど荒れ地になったが、近所とのつながりは40年前と変わらない。
「今でも家族みたいに行き来してるよ。みんなで大変な作業を共有したから一体感は今でも一緒さ。楽しいよ」