絹人往来

絹人往来

読者から「絹の記憶」 目に浮かぶ母の姿 掲載日:2006/07/20

養蚕、製糸、織物にかかわる体験記「絹の記憶」が続々と寄せられています。一人一人の心に刻まれた貴重なエピソードがつづられ、「シルクカントリー群馬」の歴史を伝える証言となっています。2回にわたり、読者の文章、写真を紹介します。


◎4代にわたり受け継ぐ着物 萩原静枝さん(73) 高崎市木部町

72年前から4代にわたり使われてきた絹織物
72年前から4代にわたり使われてきた
絹織物

 今から72年前、私が生まれた時、祖母が初孫である私のために作ってくれた正絹の着物です。米麦養蚕中心の農家で、蚕を飼い、繭から糸を引き、足踏みの機織り器で白絹を織り、両の手を経へて作ってくれた、汗の結晶です。
 その着物を私が結婚する時、タンスの宝物として持って来ました。そして長女が生まれた時、お宮参りをしました。それから20年という歳月を経て、長女が和裁学校で着物と羽織を合わせて、大人物の着物として仕立て直しました。祖母から母へ、そして私へ、それから私の長女へと4代72年にわたって生き続けた、まさに生き物です。色は少々あせましたが、弾力性があるしっかりとした絹織物です。
 蚕は「お蚕(こ)さま」といって、人間のお子さまよりも大事にされ、養蚕中は家族は部屋の隅に追いやられ、お蚕(かいこ)さまさまでした。とれた繭を母が煮て糸を引き、あの細い縦糸横糸で絹を織る姿、音が今でも目に浮かびます。今思うとまったくぜいたくです。下着のパンツまで絹で縫って着ていました。


◎織り子を開拓機揚げに奔走 川村禮次郎さん(76) 伊勢崎市喜多町

祖母(右から2番目)、母(左端)らとの記念写真。全員が伊勢崎銘仙の着物を着ている=1932(昭和7)年
祖母(右から2番目)、母(左端)らとの記念写真。
全員が伊勢崎銘仙の着物を着ている
(右から3番目が川村さん)=1932(昭和7)年

 父は農家の三男坊。佐波郡三郷村立三郷尋常高等小学校高等科を卒業すると、伊勢崎町(現伊勢崎市大手町)の栗田仙太郎さんが経営する元機屋に住み込み、見習いをして独立。機巻き、糊(のり)付け、整経の職人(下職)と知り合い、織り子(織り娘)を開拓して、はたし回りをした織り子の技術との人間的信頼関係によって成立してこその職業である。
 織り子に賃機(ちんばた)を払い、機揚げに自転車を駆って東奔西走、東は赤堀、北は大胡、西は駒形まで。座敷に機巻きがいっぱい。それを整理屋に頼んで反物として完成すると、伊勢崎織物同業組合に搬入し、換金したようだ。
 母は前橋生まれ。座繰り機で湯鍋の繭を組ませ、糸枠に巻きつかせるのがうまかった。伊勢崎に嫁いだので、機屋を手伝いながら、高機を習い織った。「取っちゃ(取る)、かっちゃ(買う)、くい(食う)」の両手両足を使っての筬(おさ)の音、行き来する杼(ひ)の音が耳に残る。


◎見守ってくれた「衣笠様」に感謝 大山ツネ子さん(70) 前橋市総社町

前橋市総社町・大屋敷公民館に置かれている「衣笠様」
前橋市総社町・大屋敷公民館
に置かれている「衣笠様」

 私が前橋市総社町の農家に嫁いだ昭和32年ごろ、多くの家が米麦の二毛作と養蚕をしていました。特に養蚕は熱心で私の家でも、経済の中心でした。
 祖父は、蚕の稚蚕中は絶対に晩酌はせず、稚蚕飼育に専念したと聞いております。また、明治38年ごろに、蚕の病気を勉強した資料なども残っています。
 毎年4月15日に、「衣笠様」を祭る行事があり、お供え物をし、一年の豊作を祈願しました。このお祭りが終わると、さあ蚕の準備だという気持ちになり、家中みんなで大掃除をし、蚕具を川棚で洗い、天日干しをしておきます。
 蚕は年に3回掃き立てますが、残桑がある時は5回行いました。蚕は短日数で結果が出ますので、最高に疲労します。蚕に適した飼育をすれば、それは大きな繭が出来ます。白い繭を手の上にのせ、固い感触を感じた時、今までの苦労が一気に飛んでしまいます。衣笠様のおかげだと感謝しました。今、養蚕をする人もほとんどなくなって、衣笠様も一年中出番がなく、公民館の片隅で眠ったままです。