絹人往来

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養蚕神社 日々の努力と信仰心 桜井 光照さん(83) 長野原町与喜屋 掲載日:2006/06/30


「養蚕が盛んだったころは、ここら辺で一番盛り上がったお祭りだった」と振り返る桜井光照さん
「養蚕が盛んだったころは、ここら辺で一番盛り上がったお祭りだった」と振り返る桜井光照さん

 長野原町総合運動公園のほど近くにひっそりとたたずむ社。1909(明治42)年に五つの神社の合併でできた与喜屋養蚕神社では毎年、5月15日に春季例大祭を行っている。
 「この辺は6月の初めころが最初の掃き立てだったから、百姓仕事も始まらないちょうどいい時期だった。お祭りが済んだら仕事を始めろという一つの目安だった」
 養蚕神社という名に吾妻全域はもちろん、利根郡や前橋、高崎からも人が訪れた。参道には養蚕具や農具などの出店が並び、祭りの翌日には旅一座の芝居が行われた。
 「とにかく境内が押すな押すなで、浅草を歩くようだった。当時は娯楽がなかったから、みんな祭りを楽しみにしてた」
 昭和30年代までは、換金作物と言えば養蚕しかなかった。与喜屋地区でも蚕を飼っていない家は1、2軒だった。
 「そのころはお蚕様って様をつけるくらいだったから、人間以上の扱いをした。繭が取れさえすればよかったから、その当時は信仰が強かった。みんな願掛けに本気だった」
 「この辺では、『1グラムが1貫目』って言って、蚕の種1グラムから繭が1貫以上取れれば当たり、それ以下だとはずれと言った。桑を満足にくれても、伝染病にかかりゃあ全滅になることがいくらでもあった」
 病気の予防薬がほとんどなかった時代。風通しをよくして病気を防ぎ、神頼みをするくらいしか方法はなかった。
 「消毒薬と言えばホルマリンを薄めてまくぐらいだった。おしゃり(硬化病)は湿気が多いとき出たから、雨でも長降りすると一番気をつかった」
 もちろん神頼みばかりでなく、努力は惜しまなかった。
 「蚕を伸ばすために、桑を本気でくれた。日が出ると桑がしなびちゃうから、時間との勝負だった。1日に3回も4回も桑を切りに行った」
 懸命に養蚕に励み、年間4回の掃き立てで60グラムの種から600キロを出荷したこともあった。
 「繭が出来て出荷すればすぐ次が来た。金を取りたければ蚕だったけどとにかく忙しかった。今考えてみたらよくあんなにやったと思う」

(中之条支局 吉田茂樹)