絹人往来

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養蚕室 上蔟は時間との勝負 荻原 貞三さん(77) みどり市大間々町浅原 掲載日:2007/1/3


「この回転まぶしが所狭しと並べられた」と養蚕室で話す荻原さん
「この回転まぶしが所狭しと並べられた」と養蚕室で話す荻原さん

 江戸時代から代々、養蚕農家だった荻原貞三さん(77)の家屋は典型的な養蚕農家の造りだ。どっしりとした母屋の2階に上がるとすべてが板の間、大きな空間が広がる。
 「昭和2年に養蚕をする目的で建てられた。この2階すべてが『おこ』を育てる養蚕室として使われた。8間に4.5間の大きさで、屋根裏も使ったんですよ」と説明してくれた。
 「『おこ』の皮がむけて桑の葉につくと本番。桑の葉を細かく切って与えると、体が透き通って『ズー』という状態になる。『そら、頼みに行ってこい』って、じいさんに言われて近所に手伝いを頼みに行ったものです」
 2階には1階から上れるはしご段があり、庭先から滑車で運び上げた。上蔟(じょうぞく)は4、5人が庭で「み」という道具に蚕を入れて2階に運んだ。「早くしないと、蚕が桑の中で繭を作ってしまうので時間との勝負だった。『ズー』になったその日に回転まぶしに上げないと駄目なので、朝9時から午後4時まで、屋敷中を人が右往左往して動き回った」
 「これが昭和中期の回転まぶしだよ」と見せてくれたのが、紙製のまぶしを木枠に引っかけるものだ。生まれた時から「おこ」と生活してきたので、荻原さんは当時の情景を昨日のことのように生き生きと話す。
 「しけると『ポシャリ』といって、白くカビが生えて死んでしまうので石灰をまいて乾かした。回転まぶしに『おこ』を載せていくとワサワサとはっていき、柵の中に入っていく。あらかじめ多めに入れるので、あふれたものは落ちる。これをちり取りで拾い、別の回転まぶしに置いていった」
 年5回掃き立てた。5月10日ごろから春蚕が始まり、1月ごとに夏蚕、秋蚕、晩秋蚕、晩々秋蚕へと進む。「寒いと『おこ』が食べないので、練炭やストーブをたいて部屋全体を温めた」
 蚕の食欲はおう盛。「朝のうちに桑を切って30束ぐらい運んだ。多いときは5、60束にもなった」。見渡す限りの桑畑を往復するように採ってきたという。最盛期は太田まで桑を採りに行ったと話す時、荻原さんの表情は誇らしそうだった。

(わたらせ支局 本田定利)