絹人往来

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実業学校 ずっと蚕に強い思い 山田 修さん(86) 藤岡市坂原 掲載日:2007/06/13


桑摘みの手伝いをしていた子供時代を振り返る山田さん
桑摘みの手伝いをしていた子供時代を振り返る山田さん

 藤岡市内の養蚕農家の二男として生まれ、子供のころは主に桑摘みを手伝った。かごを背負い、両手で桑の葉を1枚1枚摘み取っていく。蚕が小さい時は柔らかい新芽の部分。成長すると硬い葉の部分を摘んで蚕に与える。
 売り物にならない繭は、母や姉、妹が湯で煮て座繰りで紡いで機を織り、着物を作ってもらっていた。小学校5、6年ごろになると、養蚕時期に学校が2、3日休みになり、手伝った。養蚕はまさに生活の中心だった。
 「家の中で蚕を育てていたから、養蚕の時期は蚕と一緒に寝ていた。桑を食べる音は雨が降っているような感じだった」
 尋常高等小学校を卒業後、同市の多野実業公民学校に入学。一般教養の国語や数学などに加え、農業や養蚕技術について学んだ。
 同公民学校は、養蚕の技術的指導を手掛けた高山社蚕業学校の廃校後、衆院議員を務めた高津仲次郎氏によって設置された。実業家の育成が目的だった。
 授業では、卵ができるまでの過程も勉強した。繭を一定の温度にして交尾させ、種板に卵を産み付けさせるまでの流れを学んだ。
 「交尾させる段階は知らなかったので、いい勉強になった。成長によって温度調整が異なる理由なども教えてもらい、普段行ってきた養蚕についての理解が深まった」
 熊谷陸軍飛行学校に入隊するため、1年で退学するが、貴重な経験となった。
 終戦となって復員後、上野村東小野栗沢分校の代用教員に。24年間にわたってへき地教育に力を注いだ。分校の子供たちとの交流などをまとめた著書「すりばち学校の24年」は大きな反響を呼んだ。
 教職に就いてからは本格的に養蚕にかかわることはなかったが、蚕に対しては、ずっと強い思いを抱き続けてきた。
 「輸入品の繭に頼るのではなく、養蚕を復活させて国内での生産を見直してほしい。そんな農家の環境づくりが必要なのではないか」

(藤岡支局 林哲也)