絹人往来

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裏絹 ピーク時は月4万反 柳島 基乎さん(70) 高崎市住吉町 掲載日:2006/05/18


大事に残してある裏絹の製品を手に当時を語る柳島さん
大事に残してある裏絹の製品を手に当時を語る柳島さん

 和服の裏地に使う裏絹を製造する精練業界が最盛期を迎えたのは1960年代。光沢に富み手触りのいい白色の胴裏絹は着物の必需品で、着物の売り上げに応じて問屋からの発注が増えた。
 「赤線がなくなったのを境に、着物の裏地が白張り一辺倒になって急に仕事が増えた。昭和34年からの10年余りは、休めるのはお盆の2日と正月三が日だけ。問屋さんを何軒も抱えてて、持ち込まれる材料で工場や家の中がいつも埋まってた」
 機屋が織った生絹(なまぎぬ)をカセイソーダなどが入った大釜で煮て不純物を落とし、染色、のりづけ、整理加工する。当時、業者は京都、埼玉、高崎に集中し、中でも4工場あった高崎は全国生産量のほぼ半分を占める一大産地だった。
 江戸時代から続く家業の高崎精練は、現在の高崎警察署の南側の住宅街にあった。増床に増床を重ね、ピークで月4万反を製造する全国最大規模の工場に。40人の従業員を抱えた時期もあった。
 「のりの配合と乾燥のさせ方がいいと腰のある裏絹ができた。同じ分量でやっても私たちだとだめ。職人だけが加減を知ってた。腕のいい職人ほどよく遊び、毎晩柳川町に繰り出してた。周りには派手な業界と思われてたけど、工賃が安く、いくら忙しくても金は残らなかった」
 機械化に伴う投資などがかさんで経営が傾き始め「助けを求めた問屋に乗っ取られる」憂き目に遭ったが、両親と兄弟、職人2人で一から再出発し、別の問屋との取引で立て直した。
 だが、75年ごろから和服離れと中国品の流入の影響で仕事が減り始め、「バブル景気が弾けたら問屋さんが参ってしまい」受注は完全になくなった。
 「裏絹しか知らないから、景気が良くなれば再開したい」と15年ほど会社を畳まずにいたが、2年前とうとう清算した。
 「事態が変わるのを期待し会社を残したけど断念した。私の代でつぶすのは忍びないが時代の流れだからしょうがない。まさか和服がこんなに売れなくなるとは思わなかった。裏絹が高崎の地場産業だったことを忘れないでいてほしい」

(高崎支社 多田素生)